熱の湯(ねつのゆ)
御座の湯(ござのゆ)
御座の湯
脚気の湯(かっけのゆ)
この湯かっけに験(しるし)あるがゆへに名によぶ
湯畑上の現在の広場にあったが、大正時代に撤去された。
湯畑上の現在の広場にあったが、大正時代に撤去された。
脚気の湯
鷲の湯(わしのゆ)
昔わしの疵(きず)をいやせし湯なり
大坂屋旅館の向かいに鷲の湯跡の碑が残る。
大坂屋旅館の向かいに鷲の湯跡の碑が残る。
鷲の湯
鷲の湯跡地説明文
鷲の湯跡地説明文
千代の湯(ちよのゆ)
地蔵の湯(ぢぞうのゆ)
綿の湯(わたのゆ)
肌身をあたためる名をとりてしるべしよはき人、ひへしょうの人、心ながく入ば、げんきをます也、子なき女はくわいたいするなり
湯畑上の現在の広場にあったが、大正時代に撤去された。
現在は、白旗源泉の向かいにあるお好み焼き源泉閣さんの地下から湧出しています。湯畑よりも優しいお湯で、真綿でくるまれるような入浴感から「綿の湯」と呼ばれる。
綿の湯を引いている唯一の宿 ペンションはぎわら強烈な硫黄臭だが、優しい肌触りでお湯の透明感と湯ノ花の対比が楽しい温泉です。女湯は透明感が高く、男湯は湯ノ花を楽しむことが出来、どちらも貸切可能。湧出量毎分2700リッターを誇る凄い源泉で、主に小田急別荘地に給湯されている。
湯畑上の現在の広場にあったが、大正時代に撤去された。
現在は、白旗源泉の向かいにあるお好み焼き源泉閣さんの地下から湧出しています。湯畑よりも優しいお湯で、真綿でくるまれるような入浴感から「綿の湯」と呼ばれる。
綿の湯を引いている唯一の宿 ペンションはぎわら強烈な硫黄臭だが、優しい肌触りでお湯の透明感と湯ノ花の対比が楽しい温泉です。女湯は透明感が高く、男湯は湯ノ花を楽しむことが出来、どちらも貸切可能。湧出量毎分2700リッターを誇る凄い源泉で、主に小田急別荘地に給湯されている。
綿の湯
松の湯(まつのゆ)
効力を松の操(みさを)にたとへし湯
湯畑東側の足湯のある現在の湯けむり亭の場所にあった。
湯畑東側の足湯のある現在の湯けむり亭の場所にあった。
凪の湯(なぎのゆ)
泉質ある湯なりとぞ
現在の凪の湯の前身。
琴平の湯(ことひらのゆ)
金刀比羅神社
君子の湯(くんしのゆ)
贄川の湯(にへかわのゆ)
贄川の湯
富の湯(とみのゆ)
目の湯(めのゆ)
籬の湯(まがきのゆ)
白寿の湯(はくじゅのゆ)
滝の湯(たきのゆ)
滝の湯
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折発見したとも、行基によって開湯されたとも伝えられる。鎌倉時代には、源頼朝が草津御座の湯に入浴したことが『鎌倉日記』に記されている。これが、草津が記された最初の文献である。
頼朝を案内した御殿介の子孫と称する湯本氏が古くより領有し、戦国時代の頃には吾妻郡は上杉、北条、武田の入り乱れる地であったが、最終的には真田幸隆の旗下として活躍した。
なお草津最古の宿日新舘の番頭を務めていた井野酔雲先生の著書「戦国草津温泉紀」に当時の草津温泉の置かれた状況が詳しく記述されている。
戦国時代には「きずの湯」として武田信玄ら大名達に重用されたと言われる。古くは摂津有馬(有馬温泉)・飛騨湯島(下呂温泉)と共に三名湯に数えられた。
本願寺光佐・豊臣秀次・大谷吉継・前田利家らの名だたる戦国武将も数多く訪れており、豊臣秀吉は文禄四年(1595)草津入湯の計画をたて、一躍京洛の地にも著名な温泉となった。
江戸時代に入ると湯本氏は沼田藩真田家の臣となり、その一族平兵衛・安兵衛・角右衛門の湯本三家が温泉経営にあたり、御座の湯・脚気の湯・鷲の湯・綿の湯・滝の湯の五湯があり、湯治者から湯銭をとって湯小屋の普請に当てた。
このころ草津は有馬温泉と並んで温泉番付日本一とされ、その評価はゆるぎないものとなる。
文政6年(1823)に発行された十返舎一九の『上州草津温泉往来』によれば、当時の草津には料理屋、酒店などが軒を並べ、美女のいる楊弓、吹矢などの娯楽施設あり、講釈師、落語家を招いてのサ−ピスありという盛況ぶりであったようだ。
領主湯本氏は寛文五年(1665)断絶し、沼田の真田家も天和元年(1681)改易となり、草津は天領となって沼田代官所、ついで岩鼻代官所の支配を受け、名主のほかに湯守がおかれて管理にあたった。
この地は高原の寒冷地のため十月から三月までは旅宿を閉じ麓の五ヵ村に冬住する風習であった。明治二年(1869)大火にあったが復興し、ベルツ博士の紹介によってさらに名を広め、今や高原保養地として栄えている。
現在、草津温泉ではベルツの構想を実現すべく、温泉保養地の建設に向けて取り組みがなされている。江戸時代の町並みを残す旧市街地では、共同浴場の保全・整備とともに、江戸時代の街並みの復元などが行われ湯治場の再興がなされている。
また、周辺の高原では、ヨ−ロッパ型の温泉保養地が形成されつつある。
現在の凪の湯の前身。
琴平の湯(ことひらのゆ)
この滝にうたれれば六根の垢をさるといふ
金刀比羅神社の近くにあった。
金刀比羅神社の近くにあった。
金刀比羅神社
君子の湯(くんしのゆ)
贄川の湯(にへかわのゆ)
贄川の湯
富の湯(とみのゆ)
富の湯に入れば屋(おく)を潤すといふ
目の湯(めのゆ)
目やみの人にはなはだ効あり
籬の湯(まがきのゆ)
この湯に入る者は花の姿となるよし
白寿の湯(はくじゅのゆ)
色の黒き人この湯に入れば白玉のごとくなるといふ
滝の湯(たきのゆ)
滝の湯
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折発見したとも、行基によって開湯されたとも伝えられる。鎌倉時代には、源頼朝が草津御座の湯に入浴したことが『鎌倉日記』に記されている。これが、草津が記された最初の文献である。
頼朝を案内した御殿介の子孫と称する湯本氏が古くより領有し、戦国時代の頃には吾妻郡は上杉、北条、武田の入り乱れる地であったが、最終的には真田幸隆の旗下として活躍した。
なお草津最古の宿日新舘の番頭を務めていた井野酔雲先生の著書「戦国草津温泉紀」に当時の草津温泉の置かれた状況が詳しく記述されている。
戦国時代には「きずの湯」として武田信玄ら大名達に重用されたと言われる。古くは摂津有馬(有馬温泉)・飛騨湯島(下呂温泉)と共に三名湯に数えられた。
本願寺光佐・豊臣秀次・大谷吉継・前田利家らの名だたる戦国武将も数多く訪れており、豊臣秀吉は文禄四年(1595)草津入湯の計画をたて、一躍京洛の地にも著名な温泉となった。
江戸時代に入ると湯本氏は沼田藩真田家の臣となり、その一族平兵衛・安兵衛・角右衛門の湯本三家が温泉経営にあたり、御座の湯・脚気の湯・鷲の湯・綿の湯・滝の湯の五湯があり、湯治者から湯銭をとって湯小屋の普請に当てた。
このころ草津は有馬温泉と並んで温泉番付日本一とされ、その評価はゆるぎないものとなる。
文政6年(1823)に発行された十返舎一九の『上州草津温泉往来』によれば、当時の草津には料理屋、酒店などが軒を並べ、美女のいる楊弓、吹矢などの娯楽施設あり、講釈師、落語家を招いてのサ−ピスありという盛況ぶりであったようだ。
領主湯本氏は寛文五年(1665)断絶し、沼田の真田家も天和元年(1681)改易となり、草津は天領となって沼田代官所、ついで岩鼻代官所の支配を受け、名主のほかに湯守がおかれて管理にあたった。
この地は高原の寒冷地のため十月から三月までは旅宿を閉じ麓の五ヵ村に冬住する風習であった。明治二年(1869)大火にあったが復興し、ベルツ博士の紹介によってさらに名を広め、今や高原保養地として栄えている。
現在、草津温泉ではベルツの構想を実現すべく、温泉保養地の建設に向けて取り組みがなされている。江戸時代の町並みを残す旧市街地では、共同浴場の保全・整備とともに、江戸時代の街並みの復元などが行われ湯治場の再興がなされている。
また、周辺の高原では、ヨ−ロッパ型の温泉保養地が形成されつつある。
上州草津温泉道中
上州草津温泉之図