江戸時代三代将軍家光の寛永年間に至って天下安定し療養中心の草津温泉も亦繁栄の機運となる。
高原長右衛門等村人相計り開運の神四国讃岐の金刀比羅宮を勧請し来りて西の河原入口西側高台に
社殿を構え百余段の石段を築き神霊を祭る。石段右側に源泉湧出旺盛一帯の地高原長右衛門所有地
で桐屋と称す料亭を営み奥庭に純古風の泉水を設け霊泉に「君子の湯」と命名し後に草津十二湯の
一つに数えられた。最盛期は文化文政時代で当時民衆の声で「草津にゆかば金刀比羅様に願かけて
君子の湯で真まで暖まり泉水眺めて一杯飲むは此世の極楽」の語り草ありと。現在湯畑の西側より
西の河原一帯を泉水区と呼ぶは桐屋の泉水に起因する。泉水館は大正の始め開業の祖長野原町出身
で画人萩原秋水氏の命名に依るものである。
泉水館前に掲示されている「君子の湯」及び「泉水館」の説明文