日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折発見したとも、行基によって開湯されたとも伝えられる。
鎌倉時代には、源頼朝が草津御座の湯に入浴したことが『鎌倉日記』に記されている。これが、草津が記された最初の文献である。
頼朝を案内した御殿介の子孫と称する湯本氏が古くより領有し、戦国時代の頃には吾妻郡は上杉、北条、武田の入り乱れる地であったが、
最終的には真田幸隆の旗下として活躍した。
なお草津最古の宿日新舘の番頭を務める井野酔雲先生の著書に当時の草津温泉の置かれた状況が詳しく記述されている。
戦国時代には「きずの湯」として武田信玄ら大名達に重用されたと言われる。
古くは摂津有馬(有馬温泉)・飛騨湯島(下呂温泉)と共に三名湯に数えられた。
本願寺光佐・豊臣秀次・大谷吉継・前田利家らの名だたる戦国武将も数多く訪れており、
豊臣秀吉は文禄四年(1595)草津入湯の計画をたて、一躍京洛の地にも著名な温泉となった。
江戸時代に入ると湯本氏は沼田藩真田家の臣となり、その一族平兵衛・安兵衛・角右衛門の湯本三家が温泉経営にあたり、
御座の湯・脚気の湯・鷲の湯・綿の湯・滝の湯の五湯があり、湯治者から湯銭をとって湯小屋の普請に当てた。
このころ草津は有馬温泉と並んで温泉番付日本一とされ、その評価はゆるぎないものとなる。
文政6年(1823)に発行された十返舎一九の『上州草津温泉往来』によれば、
当時の草津には料理屋、酒店などが軒を並べ、美女のいる楊弓、吹矢などの娯楽施設あり、
講釈師、落語家を招いてのサ−ピスありという盛況ぶりであったようだ。
領主湯本氏は寛文五年(1665)断絶し、沼田の真田家も天和元年(1681)改易となり、
草津は天領となって沼田代官所、ついで岩鼻代官所の支配をうけ、名主のほかに湯守がおかれて管理にあたった。
この地は高原の寒冷地のため十月から三月までは旅宿を閉じ麓の五ヵ村に冬住する風習であった。
明治二年(1869)大火にあったが復興し、ベルツ博士の紹介によってさらに名を広め、今や高原保養地として栄えている。
現在、草津温泉ではベルツの構想を実現すべく、温泉保養地の建設に向けて様々な取り組みがなされている。
江戸時代の町並みを残す旧市街地では、共同浴場の保全・整備とともに、江戸時代の街並みの復元などが行われ、
湯治場の再興がなされている。また、周辺の高原では、ヨ−ロッパ型の温泉保養地が形成されつつある。