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深大寺城付近の地図
CASTLE  LIST
武蔵の城 ★★☆☆☆
深大寺のふるき郭を再興するも北条氏綱にスルーされる
 城名  深大寺城
 国名  武蔵国
 住所  東京都調布市深大寺元町2丁目14-4
 別名  なし
 城郭構造  直線連郭式丘陵城郭
 天守構造  不明
 築城主   狛江氏?
 主な城主  扇谷上杉氏
 主な改修者  難波田弾正広宗
 遺構  曲輪、堀、土塁
 取材年月日  2019年12月21日
 深大寺城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部の標高約50mを測る舌状台地の一角に所在する、三つの郭からなる戦国時代の城跡である。台地の東側には90m幅に及ぶ湿地帯が広がり現在は神代植物公園の附属施設である水生植物園となっている。西側にも湧水を集めた支谷があり、南側は比高約15mを測る国分寺崖線によって画され、南方に多摩川とその対岸を望見することができる。城跡の北側の谷を挟んで古刹・深大寺がある。深大寺は白鳳時代に創建以来賑わっており、交通の要衝であり、台地の湧き水が得られる築城の好適地であった。

 深大寺城は、武蔵七党の狛江氏により築城されたとの伝承があるが、正確な築城時期、築城者は不明。戦国時代、関東の覇権を争う小田原北条氏と扇谷上杉氏の攻防の中でで、扇谷上杉氏方が造営した城跡である。文献に深大寺城の名が見えるのは戦記物『河越記』が初見とされ、『相州兵乱記』『北条記』『北条五代記』『鎌倉九代後記』にも記述がみえる。

 それらによると、深大寺城は、大永4年(1524)北条氏綱によって重要拠点の江戸城を奪取された扇谷上杉朝興の息子朝定が、家臣の難波田弾正広宗に命じて天文6年(1537)、多摩川を挟んで北条氏方の拠点の一つであった小沢城跡に対抗する位置に所在する「深大寺のふるき郭」を再興したものとされる。しかし北条氏綱は深大寺城を攻めずに、付城として牟礼・烏山に砦を築いてこれを封鎖し、同年7月、直接扇谷上杉氏方の河越城を攻め、朝定は松山城跡に敗走した。これによって一気に勢力図は塗り替えられ、深大寺城の軍事的意義は喪失、そのまま廃城となったと考えられる。
深大寺城跡図
深大寺城跡図
水生植物園
水生植物園
深大寺城跡現況
深大寺城跡現況
水生植物園現況
水生植物園現況
神代植物公園本園と水生植物園
神代植物公園本園と水生植物園
深大寺城第一郭現況
深大寺城第一郭現況
深大寺城第二郭現況
深大寺城第二郭現況
水生植物園案内図
水生植物園案内図
第一郭跡説明
第一郭跡説明
戦国時代にもここにそば畑があったのだろうか?
戦国時代にもここにそば畑があったのだろうか?
空堀はほとんど埋まってしまったが、かつては薬研堀だった
空堀はほとんど埋まってしまったが、かつては薬研堀だった
第一郭跡1
第一郭跡1
第一郭跡2
第一郭跡2
土塁に登ってみた
土塁に登ってみた
第一郭跡3
第一郭跡3
腰廓が二段になっているのが分かる
腰廓が二段になっているのが分かる
第二郭跡の外側も土塁で囲われている
第二郭の外側も土塁で囲われている
第二郭跡は兵隊の駐屯地とされる
第二郭跡は兵隊の駐屯地とされる
土塁の切れ目に虎口が確認出来る
土塁の切れ目に虎口が確認出来る
芝を植えて緑化し土塁などを保護するのかしらん?
芝を植えて緑化し土塁などを保護するのかしらん?
一段目の腰廓から二段目の腰廓を望む
一段目の腰廓から二段目の腰廓を望む
水生植物の分布概念図
水生植物の分布概念図
大きなサワガニ
大きなサワガニ
トンボの幼生ヤゴ
トンボの幼生ヤゴ
スジエビ
スジエビ
ミズカマキリ
ミズカマキリ
コイ
コイ
ウシガエルの幼生
ウシガエルの幼生
ホトトギス
ホトトギス
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