深大寺城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部の標高約50mを測る舌状台地の一角に所在する、三つの郭からなる戦国時代の城跡である。台地の東側には90m幅に及ぶ湿地帯が広がり現在は神代植物公園の附属施設である水生植物園となっている。西側にも湧水を集めた支谷があり、南側は比高約15mを測る国分寺崖線によって画され、南方に多摩川とその対岸を望見することができる。城跡の北側の谷を挟んで古刹・深大寺がある。深大寺は白鳳時代に創建以来賑わっており、交通の要衝であり、台地の湧き水が得られる築城の好適地であった。
深大寺城は、武蔵七党の狛江氏により築城されたとの伝承があるが、正確な築城時期、築城者は不明。戦国時代、関東の覇権を争う小田原北条氏と扇谷上杉氏の攻防の中でで、扇谷上杉氏方が造営した城跡である。文献に深大寺城の名が見えるのは戦記物『河越記』が初見とされ、『相州兵乱記』『北条記』『北条五代記』『鎌倉九代後記』にも記述がみえる。
それらによると、深大寺城は、大永4年(1524)北条氏綱によって重要拠点の江戸城を奪取された扇谷上杉朝興の息子朝定が、家臣の難波田弾正広宗に命じて天文6年(1537)、多摩川を挟んで北条氏方の拠点の一つであった小沢城跡に対抗する位置に所在する「深大寺のふるき郭」を再興したものとされる。しかし北条氏綱は深大寺城を攻めずに、付城として牟礼・烏山に砦を築いてこれを封鎖し、同年7月、直接扇谷上杉氏方の河越城を攻め、朝定は松山城跡に敗走した。これによって一気に勢力図は塗り替えられ、深大寺城の軍事的意義は喪失、そのまま廃城となったと考えられる。