城址にひっそりと立つ大庭城蹟の碑文には、
此地大庭景親ノ居城ト云フ、後上杉定正修メテ、居城セシガ、永正九年子朝良ノ時、北条早雲ニ政略サレ、是ヨリ北条氏ノ持城トナッタ。廃城ノ年代未詳空塹ノ蹟等、当代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノガアル。
昭和七年九月 神奈川県 と刻まれている。
大庭城は、平安時代の末期(12世紀末)この地は大庭御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園であった。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五郎景正が長治年間(1104年〜1106年)相模国高座郡大庭御厨を開発して、永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。のちに子孫は、大庭氏に改姓し、代々治めた。
城を築城したのは大庭景親の父にあたる大庭景宗と言われている。「大庭の舘(たて)」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前に渡ってしまうが、景親は最後まで抵抗し、捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼が和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされていたが、現在では、筑後に逃れたという説が有力とされている。
享徳元年(1452年)頃までに扇谷上杉氏が大場御厨を所領とする。扇谷上杉定正の執事であり江戸城を築城した築城の名手太田道灌が、長禄元年(1457年)鎌倉と糟屋館の中間地点のこの地に最新の技術を取り入れ築城工事をおこなったと言われている。
享徳3年(1455年)から勃発した享徳の乱の初期には相国寺鹿苑院の喝食だった扇谷上杉家当主定正の弟である朝昌が、後に何らかの理由で還俗して扇谷上杉家の領国支配の一翼を担い、相模七沢城に入った。長享2年(1488年)扇谷上杉朝昌、山内上杉氏との合戦に敗れ、守備していた七沢城を放棄し、大庭城に移る。朝昌の娘は関東管領上杉山内憲房の正室であったが、大永5年(1525年)に憲房が没すると実家に戻る。享禄3年(1530年)、当時の当主である甥の朝興の意思により武田信虎の側室となった。憲房後室と信虎の婚姻、さらに3年後の朝興娘と信虎嫡子太郎(後の武田信玄)との婚姻により、扇谷上杉氏と武田氏は姻戚関係となり同盟はより強固なものとなった。
明応8年(1499年)『玉隠和尚語録』に、「一人大庭堅其塁、大庭氏館、此去不遠」という大庭に城郭と館が存在していた記述がある。
その後、上杉朝良の時、永正9年(1512年)相模に侵攻してきた伊勢宗瑞(北条早雲)によって攻略され、以後小田原北条氏の支配下に置かれた。この時大庭城を攻めあぐねた北条氏は「引治川の堤を切れば、一帯は水浸しになると」教えた地元の老婆を殺害し、哀しい舟地蔵の言い伝えとなった。東相模を制圧した早雲は大庭城を大改修したが、玉縄城を築城したので利用価値は低くなった。
北条綱成の弟に福島勝広(福島伊賀守)と言う名が見られる。この人物は川越城の攻防戦の最中、川越城の守将北条綱成に単騎で伝令役を務め、北条綱房と称し天正15年(1546年)大庭城主となった。
永禄2年(1559年)『小田原衆所領役帳』に、玉縄北条氏の一族と考えられる福島左衛門が玉縄衆として、180貫文で大庭を知行との記載がある。
そして、天正15年(1587年)、北条小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、大庭城は廃城となったようだ。
江戸時代の終り頃に成立した『新編相模国風土記稿』には大庭城の伝承の記述がある。それによると、「大庭城は元々大庭景親の居館を築城の名手太田道灌が作り直した」ということだ。大庭城から南方約1kmの城南二丁目付近は、新住所表示に変わるまでは「城(たて)」と呼ばれる地域であった。『日本城郭大系』は、その地名から「館(たて)」が築かれていたと推しているが、それに関する史料や遺構は皆無で、現在ではバス停「城」に遺名が残るだけだ。大庭城と同時期の資料『玉隠和尚語録』から推測すると大庭景親の居館跡は、この場所であったと推測される。いつの頃からこの二つの話が混ざって後生に伝わったと推測される。ただし、中世の武士は平時は利便性の高い館で暮らし、戦時には城砦に立て籠もったため大庭景親が館と城の双方を所有していた可能性も否定できない。
現在残されている土塁・空堀などの城址の構えには、小田原北条氏の改修があったものと考えられるが、雄大でかつ綿密に設計されていたことは、築山、裏門、二番構、駒寄などの地名からもしのばれる。