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箕輪城付近の地図
CASTLE  LIST
上野の城 ★★★★★
業政がいる限り上州に手は出せぬと信玄に言わしめた堅城
 城名  箕輪城
 国名  上野国
 住所  群馬県群馬郡箕郷町西明屋字城山
 別名  なし
 城郭構造  平山城
 天守構造  不明
 築城主   長野業尚
 主な城主   長野業政、内藤昌月、滝川一益、
  北条氏邦、井伊直政
 主な改修者  武田氏、北条氏、井伊氏
 遺構   曲輪、堀切、土塁、石垣、土橋、虎口、
  馬出し、井戸、復元門
 取材年月日  2017年4月2日
 歴史

 箕輪城は、明応、永正年間(1492〜1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。

 長野氏は武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山内上杉家の再興を図って最後まで奮戦した武将である。

 特に長野信濃守業政は、弘治年間(1555〜1558)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。

 業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は

 春風にうめも桜も散りはてて
 名のみぞ残る箕輪の山里

 という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は六十余年である。

 武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。

 天正18(1590)年、北条氏滅亡後徳川家康は重臣井伊直政を十二万石でここに封じて関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は一世紀にわたる歴史を閉じた。

 構造

 箕輪城跡の標高は270m、面積は47haに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼、東と北は水堀を回らして守りを固めている。

 城は深さ10数m大堀切で南北に二分さ、さらに西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。

 御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸や祭戸堰用水によって城の用水は完備していた。殊に法峯寺郭は、江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどすぐれた用水である。

 六か所の「馬出し」や櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。
箕輪城イメージ図
箕輪城イメージ図
武蔵の五遁、あっちへこっちへより転載許可済
郭馬出西虎口門
郭馬出西虎口門
 2002年度の発掘調査によって、郭馬出西側の出入口
(虎口)部分で井伊氏の時代(16世紀末)の城門の柱の
礎石が8石確認されました。
 この虎口は本丸への登城ルートのうち、城南側からの2
ルートが集約される防御上きわめて重要な場所となって
います。そのため、検出された箕輪城の城門の中では最
大規模(幅5.73m、奥行3.48m)を誇り、箕輪城を象徴
する城門の一つであったと想定されます。
 礎石の配置等から2階建ての櫓門と推定されますが、
近世城郭で一般的となる瓦葺きではなく、板葺きである
ことが、中世から近世への過渡期の特徴を示しています。
 礎石がすべて残っていた好条件に加えて、さらに各地
に現存している近世初期の城門を参考にすることによ
って、門の建物構造を推定できました。2011年度からの
文化庁の専門委員会での審議を経て、2014年度から2か
年かけて、伝統的工法に基づき復元工事を行いました。
 なお、この門は、関ケ原の戦い(1600年)以前の城郭
で復元された城門の中では、全国最大規模になります。
郭馬出西虎口門復活へ至るまで
郭馬出西虎口門復活へ至るまで
郭馬出西虎口門1
郭馬出西虎口門1
郭馬出西虎口門2
郭馬出西虎口門2
郭馬出西虎口門3
郭馬出西虎口門3
郭馬出
郭馬出
 郭馬出は、50m×30m程の郭で、回りに土手を設け外
部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から
一挙に打って出る所である。このように大型の馬出しを
「郭馬出」という。
 高崎城の梅木郭は、この郭馬出しを手本にしたもので
あろう。
郭馬出と郭馬出西虎口門
郭馬出と郭馬出西虎口門
郭馬出しから木俣西へ向かう土橋
郭馬出しから木俣西へ向かう土橋
大堀切1
大堀切1
大堀切2
大堀切2
大堀切と土橋
大堀切と土橋
 この大堀切によって城は南北に二つに区切られ中央にあ
る土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても
片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭」
の城という。
 土橋の南には見事な郭馬出しが構えられ出撃の気勢を見
せている。
ホトケノザ
ホトケノザ
大堀切は木俣西から階段で降りられる
大堀切は木俣西から階段で降りられる
大堀切を歩いてみた
大堀切を歩いてみた
右側の三の丸と左側の木俣西の木々の威圧感を感じる
右側の三の丸と左側の木俣西の木々の威圧感を感じる
大堀切の石垣
大堀切の石垣
 大堀切は城を南北に二分する役割があり、現在幅30m、
深さ9mの規模を誇っています。2001年の発掘調査で堀底
付近で大堀切に直交する石垣が検出されました。石垣の規
模は上幅3.9m、下幅2.9m程度、高さ2.5m以上で、現地
表面から約5m下が石垣の上端になることから、本来の大
堀切は現在よりも7.5m以上深かったことになります。
 この石垣は敵の侵入に備える防御壁であり、併せて土砂
の流出を押さえる砂防ダムの役割を果たしていたとも考え
られます。なお、電気探査の結果、この堀には他にも同様
の石垣が数箇所に築がれていると推測されます。
虎韜門
虎韜門
 虎韜とは、中国の昔の兵書「六韜三略」の虎韜(虎の
巻)である。この門をこう名づけたの井伊直政であろう。
ここは大堀切の西下を守る要点である。
 古図によれば、この南に馬出しがあった。
大手虎韜門口
大手虎韜門口
 長野氏、武田氏、北条氏時代の大手口は現在の搦手だ
った。城の南方に城下町が作られた井伊氏時代に大手虎
韜門口が設けられ、かつての大手口が搦手口になった。
林の西側には榛名白川が流れる
林の西側には榛名白川が流れる
鍛冶曲輪の石垣
鍛冶曲輪の石垣
 鍛冶場のあった所で中世の大きな城にはよく見られ、
ここで武具などを作製、修理した。
 このような石垣は、城内各地に見られる。
鍛冶曲輪の石垣アップ
鍛冶曲輪の石垣アップ
鍛冶曲輪
鍛冶曲輪
鍛冶曲輪から三の丸へ向かう
鍛冶曲輪から三の丸へ向かう
三の丸の石垣
三の丸の石垣
 追手門から本丸へ至る大手ルートを固めている井伊時
代に使われていた石垣です。1999年の発掘調査で基部が
1m埋まっていることが確認され、当時の高さは4.1mに
も及んだことが明らかになりました。城内では最も高く、
関ケ原の戦い(1600年)以前の関東地方の城郭でも有数
の規模です。河原石を用いた野面積みで、一人では運べ
ない大きめの石を用いています。
 この石垣の背後(下層)では、最高1.3mほどの高さで、
人頭大の河原石を階段状に積んだ古い石垣が見つかって
います。同様の特徴を持つ石垣は、埼玉県寄居町の鉢形
城跡でも確認されました。当時、鉢形の城主は北条氏邦
で、箕輪の城主も兼任しており、技術が共有されたためと
考えられます。
ここは守りの要の場所だったのだろうか?
見せる石垣
見せる石垣
様々な大きさの石が使われている
三の丸門跡と石垣
三の丸門跡と石垣
 城中の石垣で、比較的よく残っているのはここである。
 三の丸は二の丸の外にある廓である。
 入り繰りの三の丸門には西側の石垣の上を渡した櫓があ
り、その下は通路であった。
三の丸の発掘調査
三の丸の発掘調査
 1999・2000年の発掘調査によって三の丸では3時期の変
遷が確認されました。1期(15世紀末頃〜16世紀中頃、
長野・武田時代頃)は屋敷地、2期(16世紀後半、北条
時代頃)に釘などを作る鍛冶場として利用された後、3期
(16世紀末、井伊時代頃)には南西側に厚さ2.4m以上もの
盛土を行い、三の丸の石垣を築いています。
 調査箇所北端部分は、虎韜門から鍛冶曲輪を経て本丸へ
登るルートの途中になります。ここでは両側に石垣を伴う
幅5.7mの通路跡(3期)が確認されました。通路は石垣に
径1m程度の大石も使われた立派なものでしたが、廃城後に
石垣は大きく崩されています。
三の丸
三の丸
三の丸別アングル
三の丸別アングル
三の丸から見た本丸
三の丸から見た本丸
巨大な空堀が本丸を取り囲んでいる
巨大な空堀が本丸を取り囲んでいる
堀底へ向かう
堀底へ向かう
遊歩道に沿って堀底へ降りる
遊歩道に沿って堀底へ降りる
右手が本丸
右手が本丸
堀が浅くなっていくのは橋台を設置するためと考えられる
堀が浅くなっていくのは橋台を設置するためと考えられる
足元に目をやると
足元に目をやると
可憐な白い蕾があたり一面に!
可憐な白い蕾があたり一面に!
できるだけ踏みつけないように慎重に歩き
できるだけ踏みつけないように慎重に歩き
生命の息吹を感じた
生命の息吹を感じた
本丸堀の橋台
本丸堀の橋台
 本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で堀はここで狭
くなっている。
 南側に石垣が昔のまま残っている。
 現在この場所には復元木橋がかかっている。
本丸側を見上げる
本丸側を見上げる
蔵屋敷側を見上げる
蔵屋敷側を見上げる
蔵屋敷
蔵屋敷
 この上の曲輪が蔵屋敷です。蔵屋敷は備蓄穀物を保管
する建物のあった場所だと考えられますが、一説による
と、いわゆる「辻馬出」の機能を併せ持ち、ここから三
の丸、通仲曲輪、鍛冶曲輪北方へ出撃するための拠点で
あったと推定されています。
左手は蔵屋敷、右側は本丸
左手は蔵屋敷、右側は本丸
南側から日の光が差し込む
南側から日の光が差し込む
堀底の木は伐採されている
堀底の木は伐採されている
空堀の敵兵はは本丸からの格好の標的になる
空堀の敵兵はは本丸からの格好の標的になる
説明板にあった石垣
説明板にあった石垣
石垣は橋台維持のために設置されたのか?
石垣は橋台維持のために設置されたのか?
むやみに踏み荒らされないように道が整備されている
むやみに踏み荒らされないように道が整備されている
御前郭のある北側へ向かう
御前郭のある北側へ向かう
堀底から御前郭は階段で登れる
堀底から御前郭は階段で登れる
左手は本丸、右側は蔵屋敷
左手は本丸、右側は蔵屋敷
御前曲輪北堀
御前曲輪北堀
 ここでは堀は五つに分かれていた稲荷曲輪、玉木山、
通仲曲輪の三つの廓が、それぞれくちばし状にここに集
まっている。
 三つの郭の間を進むと、新曲輪、丸馬出しに行くこと
ができる。
御前曲輪の階段を降りたところが要衝になっている
御前曲輪の階段を降りたところが要衝になっている
右手が御前曲輪、左手が稲荷曲輪
右手が御前曲輪、左手が稲荷曲輪
正面の階段を登ると御前曲輪
正面の階段を登ると御前曲輪
右手が玉木山、左手が通仲曲輪
右手が玉木山、左手が通仲曲輪
玉木山に付属して作られた丸馬出し
玉木山に付属して作られた丸馬出し
玉木山という名前の考察は、武蔵の五遁様の意見が参考になります
玉木山という名前の考察は、
武蔵の五遁様の意見が参考になります
丸馬出
丸馬出
 城の東北部はゆるやかな斜面なので、水堀を二重にめ
ぐらして備えを固めているが、この方面の敵に対して出
撃するためこの馬出しが設けられている。
 堀と土手は半円形で、南北両端に出入口を開くこのよ
うな堀を三日月堀と呼ぶが、丸馬出しの残っている例は
案外に少ない。
高低差のない脆弱な北側の守りを増強するために武田時代に丸馬出しが設けられたと考えられている
高低差のない脆弱な北側の守りを増強するために武田時
代に丸馬出しが設けられたと考えられている
オオイヌノフグリ
オオイヌノフグリ
ホトケノザ
ホトケノザ
オオイヌノフグリとホトケノザ
オオイヌノフグリとホトケノザ
丸馬出しには梅が咲いていた
丸馬出しには梅が咲いていた
丸馬出しから榛名山方面を望む
丸馬出しから榛名山方面を望む
丸馬出しはかなりの兵員が駐屯出来そう
丸馬出しはかなりの兵員が駐屯出来そう
丸馬出しから玉木山を望む
丸馬出しから玉木山を望む
丸馬出しの北西の端はほぼ埋まっている
丸馬出しの北西の端はほぼ埋まっている
稲荷曲輪へ向かう
稲荷曲輪へ向かう
稲荷曲輪
稲荷曲輪
 この廓は御前曲輪より約70m低く、ほぼ三角形で東側
の堀は水堀であった。西北端の稲荷社のある稲荷山は櫓台
で、御前曲輪の北側の堀を通る道を強力に援護している。
北に虎口(出入口)を開き、南は帯曲輪に連なる。
長野業政が敵=武田信玄に城が攻められた時、箕輪城の稲荷曲輪に住んでいた狐が霧を立ち込めさせて箕輪城を守ったという伝説がある
長野業政が敵=武田信玄に城が攻められた時、箕輪城の
稲荷曲輪に住んでいた狐が霧を立ち込めさせて箕輪城を守
ったという伝説がある
曲輪の西の隅に稲荷が祀られている
曲輪の西の隅に稲荷が祀られている
鈴が設置され、狛犬もいる
鈴が設置され、狛犬もいる
業政の時代の霊置山(玉木山)には先祖の霊を弔う墓所があった。その一角にお稲荷さんがあったが、業盛の時代に戦乱が激しくなってくると墓碑は井戸に隠され、お稲荷さんは金古桃山稲荷神社に引っ越したみたいです
業政の時代の霊置山(玉木山)には先祖の霊を弔う墓所
があった。その一角にお稲荷さんがあったが、業盛の時代
に戦乱が激しくなってくると墓碑は井戸に隠され、お稲
荷さんは金古桃山稲荷神社に引っ越したみたいです
箕輪城が廃墟になって、我が物顔で稲荷曲輪に住み着いたきつねは、夜な夜な城下町に出没したという伝説もある
箕輪城が廃墟になって、我が物顔で稲荷曲輪に住み着い
たきつねは、夜な夜な城下町に出没したという伝説もある
右側は不動明王、左側は長野業政?
右側は不動明王、左側は長野業政?
稲荷社は空堀を監視する役目があったのかもしれない
稲荷社は空堀を監視する役目があったのかもしれない
丸馬出しの向こうに見えるのが玉木山
丸馬出しの向こうに見えるのが玉木山
丸馬出し越しに榛名山を望む
丸馬出し越しに榛名山を望む
北側の新曲輪は丸馬出しと同じ高さであることが分かる
北側の新曲輪は丸馬出しと同じ高さであることが分かる
北側の空堀は今なお2m程度の深さがある
北側の空堀は今なお2m程度の深さがある
稲荷曲輪の方から丸馬出しを望む
稲荷曲輪の方から丸馬出しを望む
御前曲輪へ向かう
御前曲輪へ向かう
御前曲輪へ向かう階段を登る
御前曲輪へ向かう階段を登る
振り返って空堀を望む
振り返って空堀を望む
さらに登ってから振り返る
さらに登ってから振り返る
何故か聖徳太子の碑がある
何故か聖徳太子の碑がある
紅梅が咲いていた
紅梅が咲いていた
白梅も咲いていた
白梅も咲いていた
箕輪城跡の標柱
箕輪城跡の標柱
箕輪城将士慰霊碑
箕輪城将士慰霊碑
御前曲輪西虎口門跡
御前曲輪西虎口門跡
 御前曲輪の出入口(虎口)です。御前曲輪西側の堀に架
かっていた木橋を渡り、この虎口を出入りしました。
 2005年の発掘調査では、ここから間口・奥行ともに3.1
mの門跡が確認されました。6つの礎石が全て残り、主柱
2本を4本の控柱で支える四脚門と考えられます。
 門の雨落溝には156個の石塔の部材が用いられています
。これらを整然と並べ拡張高く整備された門です。
石碑の2文字目が読めません
石碑の2文字目が読めません
手水鉢ということは、業政も茶を嗜んだのかも?
手水鉢ということは、業政も茶を嗜んだのかも?
安田一雨の手による芭蕉の句碑
安田一雨の手による芭蕉の句碑
夏草や兵ともが夢の跡
御前曲輪 芭蕉句碑
御前曲輪 芭蕉句碑
 夏草や兵どもが夢の跡
 筆者は安田一雨(箕郷町東関屋)だといわれています。
 一雨<元文5年(1740年)〜文政11年(1828年)>は通
称磯右衛門といわれ、前橋の松井素輪に俳句を学びました。
御前曲輪を西側から望む
御前曲輪を西側から望む
この祠も古井戸から掘り出されたのだろうか?
この祠も古井戸から掘り出されたのだろうか?
古城詠懐
古城詠懐
「御前井戸が発見された昭和二年ごろ、近在の〇民が度々
この地を訪れ、徘徊顧望、その感慨を一片の詩歌に託し、
石に刻んで奉献した。その後、草土に埋もれ苔が生じその
心〇を無くしつつあった。折からの城址整備計画のある事
を伝え聞いた家族の申し出によってこの碑が整備計画に合
わせて復活したーーー」
昭和2年に古井戸が発見された事を言っているのか?
昭和2年に古井戸が発見された事を言っているのか?

御前曲輪 井戸
御前曲輪 井戸
 昭和2(1927)年8月15日、豪雨のため一部地盤が沈下
したのがきっかけで古井戸が確認されました。
 深さは20mで、底から長野氏累代の墓石が多数掘り出さ
れました。
井戸には当時の石積がそのまま残されている
井戸には当時の石積がそのまま残されている
御前曲輪が城の精神的中心的存在だったことが分かる
御前曲輪が城の精神的中心的存在だったことが分かる
御前曲輪
御前曲輪
 御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であっ
た。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下
は石垣で固められている。天守閣はなかった。
 落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝え
られている。井戸は昭和2年に発見されたものである。
本丸の北虎口
本丸の北虎口
 正面は左手の本丸と右手の御前曲輪との間の空堀を東側
から西方向を見たところで手前が浅く、前方が深くなって
本丸西の空堀につながっている
本丸 北虎口
本丸 北虎口
  北虎口の門は間口5.4m、奥行3.3mで、本丸の3か所
の門の中で最大の規模だということが確認されました。
 門跡の周囲には101個の四角い石塔で排水溝が造られ、
石塔には梵字や15世紀の年号が刻まれているものもあり
ました。
 これほど大量に石塔を用いた例は全国的に珍しいといわ
れています。
北虎口を本丸側から望む
北虎口を本丸側から望む
本丸は箕輪城最大の曲輪
本丸は箕輪城最大の曲輪
本丸東側の土塁から空堀を望む
本丸東側の土塁から空堀を望む
本丸から御前曲輪を望む、右手が東側の土塁
本丸から御前曲輪を望む、右手が東側の土塁
箕輪城跡と箕輪城の石碑
箕輪城跡と箕輪城の石碑
箕輪城の石碑
箕輪城の石碑
長野業政辞世の句
長野業政辞世の句
 春風にうめも桜も散りはてて
 名のみぞ残る箕輪の山里
箕輪城跡案内図
箕輪城跡案内図
本丸を取り囲む空堀
本丸を取り囲む空堀
手前右手は空堀、右手前方は二の丸
手前右手は空堀、右手前方は二の丸
諸葛菜が咲いていた
諸葛菜が咲いていた
箕輪城跡遊歩道案内図
箕輪城跡遊歩道案内図
二の丸
二の丸
 二の丸は縦横各八十メートル程の郭で、本丸が持久防御
のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。
 東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土
橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。
二の丸から郭馬出を望む
二の丸から郭馬出を望む
箕輪城主 長野業正公
箕輪城主 長野業正公
戦国最強の剣聖 箕輪城 上泉信綱
戦国最強の剣聖 箕輪城 上泉信綱
搦手口
搦手口
 搦手口は、城の大手口(追手口)に対し、裏口に当たる。
ここにも「馬出し」があった。
 長野氏時代から北条氏までは、当時の情勢から考え、こ
こが大手口であって、城の南方に城下町が構成された井伊
氏時代に大手口が南面に設けられてから、ここが搦手口に
なったっといわれている。
新曲輪から霊木山駐車場を望む
新曲輪から霊木山駐車場を望む
稲荷曲輪東側の空堀
稲荷曲輪東側の空堀
梅林
梅林
この墓はいつ頃からあるのだろうか?
この墓はいつ頃からあるのだろうか?
新曲輪
新曲輪
箕輪城の歴史
箕輪城の歴史
本丸東側の空堀を歩いてみた
本丸東側の空堀を歩いてみた
右手が稲荷曲輪、左手が御前曲輪
右手が稲荷曲輪、左手が御前曲輪
一周して新曲輪に戻って来た
一周して新曲輪に戻って来た
新曲輪には井伊時代に家臣の屋敷が置かれた
新曲輪には井伊時代に家臣の屋敷が置かれた
二の丸と郭馬出は土橋で結ばれている
二の丸と郭馬出は土橋で結ばれている
郭馬出西虎口門を裏側から望む
郭馬出西虎口門を裏側から望む
郭馬出西虎口門を南西から望む
郭馬出西虎口門を南西から望む
郭馬出が防御の要所であることを体感した
郭馬出が防御の要所であることを体感した
郭馬出西虎口門を南東から望む
郭馬出西虎口門を南東から望む
木俣東からの眺め
木俣東からの眺め
木俣の外側に空堀があり土橋で結ばれている
木俣の外側に空堀があり土橋で結ばれている
直進して榛名口方面へ向かう
直進して榛名口方面へ向かう
振り向いて二の丸方面を望む
振り向いて二の丸方面を望む
椿名尾根には散り椿が
椿名尾根には散り椿が
竹が伐採されると削平地が現れる
竹が伐採されると削平地が現れる
尾根道は防御上の理由からか、人一人が通れる広さ
尾根道は防御上の理由からか、人一人が通れる広さ
椿の路
椿の路
 ここは椿名尾根につくらた堀切である。
 南に見える椿名沼跡(今の小学校のグランド)、椿山
の砦などは、このあたりに茂る椿の木による名であろうか。
 残念ながら堀切はほとんど埋まっていました。
堀切の下にも削平地があったみたいだ
堀切の下にも削平地があったみたいだ
直進すると椿名口、右折すると観音様口
直進すると椿名口、右折すると観音様口
現在は法峰寺となっている水の手曲輪
現在は法峰寺となっている水の手曲輪
 城で使う大切な水の湧き出していたところである。
 周囲の地形が「箕」のような形をしているので、箕輪
の地名もここから起ったという。
廃城後、水の手曲輪に再び戻った法峰寺
廃城後、水の手曲輪に再び戻った法峰寺
 箕輪城築城の際、寺が水の手曲輪にあたる場所であった
ため一時移されましたが、慶長3年(1598)箕輪城が廃城
となったときに、水の手曲輪に再建された
水の手曲輪には土筆がたくさん生えていた
水の手曲輪には土筆がたくさん生えていた
現在も水が豊富に湧き出している
現在も水が豊富に湧き出している
江戸時代の石仏だろうか?
江戸時代の石仏だろうか?
水汲みに行くのが地獄の一の木戸 行くとは見えて帰る人なし
水汲みに行くのが地獄の一の木戸
行くとは見えて帰る人なし

 吉井町多比良にあった一郷山城にまつわる逸話だが、
何故かここに石碑がある。
 箕輪軍記によると武田軍は天神の原に陣をかまえ、
何日かかけて城中の様子を見ていましたが、水は城の
西窪地の谷合にあり、見銘寺という寺の前で汲み上げ
ていることがわかりました。そこで、武田軍は見銘寺
を宿にして山の上の城から水汲みに来る人を鉄砲や弓
矢で狙い撃ちましたので、水を持って帰れるものは一
人もいませんでした。水がないことに困り果て、仲間
を水汲みに出したがそのときの悲しみを表したのが上
の歌。
観音様口に建つ観音堂
観音様口に建つ観音堂
直進すると郭馬出西虎口門方面、右手に行くと椿名口
直進すると郭馬出西虎口門方面、右手に行くと椿名口
このあたりにも椿の花が落ちていた
このあたりにも椿の花が落ちていた
木俣へ渡る土橋の向こうに郭馬出西虎口門が見える
木俣へ渡る土橋の向こうに郭馬出西虎口門が見える
木俣の南側は空堀に守られている
木俣の南側は空堀に守られている
城の東側の諏訪神社へ向かう
城の東側の諏訪神社へ向かう
この道は武田時代に作られたのだろうか?
この道は武田時代に作られたのだろうか?
古めかしい本殿が見えてきた
古めかしい本殿が見えてきた
合祀された摂社たち
合祀された摂社たち
境内社
境内社
拝殿
拝殿
天満宮の鳥居
天満宮の鳥居
石上神社石碑と稲荷社か
石上神社石碑と稲荷社か
道祖神
道祖神
摂社の向こうに拝殿から本殿へ向かう階段が見える
摂社の向こうに拝殿から本殿へ向かう階段が見える
本殿の横に天満宮がある
本殿の横に天満宮がある
天満宮から拝殿を見下ろす
天満宮から拝殿を見下ろす
諏訪神社誌
諏訪神社誌
 当社の祭神は建御名方命で その創建については明らか
でなく箕輪城落 城後にこの地に勧請せられたものと思わ
れる。
 境内石祠に延宝八年(三一八年前)や享保年間のものが
あり、本殿は戦後の建立であるが、内宮は江戸文化の優れ
た彫刻によるものである
 その棟札に大棟梁當国新井村阿左見日向藤原光督等の名
があり、文政五年十二月(一六八年前)上棟と記され、又
氏子に伝えられている獅子舞(箕郷町指定無形文化財)の
太鼓に天保(一六〇年前)の年号がある。
 明治年間村社に列格し 戦後に村内北に鎮座の石上神社
(布都御魂神) と榛名神社(火産霊神 埴山姫神)の両社
を合併し、昭和二十八年四月二十二日宗教法人諏訪神社と
して設立登記せられた。
 因に石上神社(布留社)は上野国神明帳に従四位下石神
神社とあり、貞観十六年(一一一六年前)大和国山辺郡石上
神宮より村内北の石上寺境内に勧請され 明治二年神佛分
離により別に社地が定められた。榛名神社(満行宮)は石上
寺記に当山北に満行権現霊威を現す云々。天暦年中、神託
があって祀るとあって、両社共に平安朝の創建で何れも千年
を超ゆる古い伝統のある神社であった。
 境内社には稲荷社、天神社その他多数の石祠があり、例
祭は現在春四月一日と秋十月九日に執行されている。
吽形の狛犬
吽形の狛犬
阿形の狛犬
阿形の狛犬
水の手曲輪の湧き水だろうか?
水の手曲輪の湧き水だろうか?
参道
参道
鳥居
鳥居
バス通りの向こうにも鳥居がある
バス通りの向こうにも鳥居がある
秋葉大権現の石碑
秋葉大権現の石碑
信綱は長野業盛から上野国一本槍の感謝状をもらった
信綱は長野業盛から上野国一本槍の感謝状をもらった
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