バナー
片倉城付近の地図
CASTLE  LIST
武蔵の城 ★★☆☆☆
南西には楕円形の馬出し、
北東には住吉池を天然の要害とする
このエントリーをはてなブックマークに追加
 城名  片倉城
 国名  武蔵国
 住所  東京都八王子市片倉町二四七五番地
 別名  なし
 城郭構造  平山城
 天守構造  不明
 築城主  横山氏?長井氏?
 主な城主  横山氏?長井氏?扇谷上杉氏?大石氏?
 主な改修者  扇谷上杉氏?大石氏?北条氏?
 遺構  曲輪、堀切、櫓台、土橋、馬出し
 取材年月日  2015年4月29日
 片倉城跡は、湯殿川と兵衛川の合流点を望む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切がなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。

 片倉城は、武蔵横山党の横山氏により築城されたとも、室町時代に別当大江広元の次男時広を祖とする長井氏をに築城されたとも言われる。いずれにしても和田合戦に敗れた横山党が滅んだ後、長井氏が片倉城に入ったということらしい。櫓台、土橋、土橋状の馬出し、楕円形の馬出し、空堀など技巧的な遺構が見られ、小規模な割に堅固な山城だったようだが、生い立ちや城主については諸説ある。

 この城跡を実地調査した研究者によると、扇谷上杉氏方の調布市にある深大寺城と占地方法や縄張などの基本構成が極めて類似する姉妹城とも言えるらしい。その後、北条氏康が次男氏照を大石定久の養子にし、大石家の家督を継がせた時に、大石定久が隠居したのがこの片倉城だったという説がある。元亀元年の武田信玄の関東への再侵入に備えた北条家の諸城修築命令により、滝山城の支城として交通の要衝にある片倉城の設備を増強したとか。

 鬼門に当たる北東には住吉池があり、社史によると片倉城主だった大江広元の次男時広の末裔である長井大膳大夫道広が、応安五年(一三七二年)城の鎮守の神として摂津国(大阪府)住吉大社を勧請したとある。住吉神社のある場所は主郭から見下ろせる位置にある腰郭に相当する。主郭は広大な二郭に比べると手狭だが、北西の隅に櫓台の跡が残り、東南には中央部に向かってかって突出した土塁があり、南側は横矢の折れが見られる。片倉城は様々な方角から登れるが、一番のおすすめは住吉神社を経由して南側へ迂回していく道筋です。

 主郭の南側の横堀は、途中で見事にクランクしており先がまったく見通せず、主郭と二郭からの格好の狙撃ポイントになる。主郭と二郭の間の堀切はかなり浅くなって入るが、木橋が復元され、往時の雰囲気を偲ばせてくれる。広大な競技場レベルの二郭の北側には、堀で分けられた物見を兼ねた郭が付属し、ここからの急峻な眺めは敵方を迎え撃つのにも絶好の場所にもなろう。城跡とは関係ないが二郭の西側の堀には躑躅が植えられており、GWの時期になると見事なお花畑と化しているので家族連れにはいいでしょう。

 二郭の南側は深い藪になっており、立ち入りも禁止されているのであきらめかけていた所、二郭南側に虎口を発見した。土橋が南側に向かって伸びており、半分藪に埋もれかけているが、左右に分かれている場所に来た時に右側を選んだ。三郭とされる楕円形の馬出しへ続く土橋状の馬出しがネットに公開されているのを思い出したからだ。残念ながら藪が酷く、馬出しの形状は確認出来なかったもののちゃんと三郭に辿り着けたのにはちょっと感動した。
片倉城跡縄張図
片倉城跡縄張図
余湖くんのホームページより転載許可済
片倉城跡は片倉駅のすぐ近くにあることが分かります
片倉城跡は片倉駅のすぐ近くにあることが分かります
八王子は歴史で町興しをしようとしています
八王子は歴史で町興しをしようとしています
奥の小高い山が片倉城です
奥の小高い山が片倉城です
参道入り口に交番があります
参道入り口に交番があります
右手は住吉神社、左手が片倉城跡
右手は住吉神社、左手が片倉城跡
住吉沼の大部分は埋められてしまったが、その一部は公園内の池となって残っている
住吉沼の大部分は埋められてしまったが、
その一部は公園内の池となって残っている
社史によると鎌倉時代の片倉城主は長井氏だった
社史によると鎌倉時代の片倉城主は長井氏だった
千鳥破風向拝部軒唐破風付という屋根の様式
千鳥破風向拝部軒唐破風付という屋根の様式
手水には大江氏の家紋が
手水には大江氏の家紋が
何が書かれているのやらさっぱり分かりません
何が書かれているのやらさっぱり分かりません
阿形の狛犬
阿形の狛犬
吽形の狛犬
吽形の狛犬
阿形と吽形の狛犬
阿形と吽形の狛犬
主郭の南側を迂回する道
主郭の南側を迂回する道
右手が主郭下の腰曲輪にある住吉神社へ至る道、左手が主郭へ至る道
右手が主郭下の腰曲輪にある住吉神社へ至る道、
左手が主郭へ至る道
突き当たりのクランク状の部分に土塁がある
突き当たりのクランク状の部分に土塁がある
右手の主郭と左手の二郭との間の堀切と、そこに架かる橋
右手の主郭と左手の二郭との間の堀切と、
そこに架かる橋
主郭側から橋を撮ってみた
主郭側から橋を撮ってみた
橋の上の構築物は木に見えるが、恐らく擬木だろう
橋の上の構築物は木に見えるが、恐らく擬木だろう
こういう構築物があるとテンションが上がります
こういう構築物があるとテンションが上がります
堀切は深さ2m程度に浅くなってしまっているが、戦国時代当時は8〜10mあったと推測される
堀切は深さ2m程度に浅くなってしまっているが、
戦国時代当時は8〜10mあったと推測される
堀切から主郭方向を望む
堀切から主郭方向を望む
堀切から二郭方向を望む
堀切から二郭方向を望む
主郭の奥には見事な藤が咲いていた
主郭の奥には見事な藤が咲いていた
藤棚でなく、自然に生えている感じが好ましい
藤棚でなく、自然に生えている感じが好ましい
紫色の藤と新緑が印象に残った主郭でした
紫色の藤と新緑が印象に残った主郭でした
主郭の北東の鬼門の位置に位置する腰郭に住吉神社はある
主郭の北東の鬼門の位置に位置する腰郭に住吉神社はある
主郭から二郭を望む
主郭から二郭を望む
主郭中央に突出する土塁に上がってみた
主郭中央に突出する土塁に上がってみた
竹薮で良く分からないので進んでみた
竹薮で良く分からないので進んでみた
主郭に攻め入られた時に立て篭もって返り討ちにする為に築かれた土塁なのか?
主郭に攻め入られた時に立て篭もって返り討ちにする為に
築かれた土塁なのか?
主郭側から土塁を望む
主郭側から土塁を望む
主郭北側隅は木が生い茂っていて下を見下ろせません
主郭北側隅は木が生い茂っていて下を見下ろせません
主郭から北西方向に下る階段が設置されている
主郭から北西方向に下る階段が設置されている
主郭の北西隅には櫓台の跡がある
主郭の北西隅には櫓台の跡がある
櫓台跡はこの城の最高地点になっている
櫓台跡はこの城の最高地点になっている
櫓台跡付近から二郭を望む
櫓台跡付近から二郭を望む
堀切北側から木橋を望む
堀切北側から木橋を望む
櫓台跡と木橋を望む
櫓台跡と木橋を望む
主郭北側より櫓台跡を望む
主郭北側より櫓台跡を望む
左が二郭、右が北側を監視するので物見郭と名付けた
左が二郭、右が北側を監視するので物見郭と名付けた
物見郭と間の堀切から二郭を望む
物見郭と間の堀切から二郭を望む
お昼時に訪れた物見郭は休憩広場になっており、ハイカー達で賑わっていました
お昼時に訪れた物見郭は休憩広場になっており、
ハイカー達で賑わっていました
物見郭から北側から登ってくる道が見下ろせる
物見郭から北側から登ってくる道が見下ろせる
戦国時代は現在よりも鬱蒼とした森だったのだろう
戦国時代は現在よりも鬱蒼とした森だったのだろう
遊歩道から二郭を望む
遊歩道から二郭を望む
二郭の北側・西側の土塁上とそれを取り囲む堀切にはつつじが植えられている
二郭の北側・西側の土塁上とそれを取り囲む
堀切にはつつじが植えられている
子連れの城郭マニア向けには子供を二郭で遊ばせておいて、周囲の探索をすることが出来るおすすめの城です
子連れの城郭マニア向けには子供を二郭で遊ばせておいて、
周囲の探索をすることが出来るおすすめの城です
二郭西側から三郭を望む
二郭西側から三郭を望む
二郭西側の堀切はつつじ山と呼ばれる観光地になっている
二郭西側の堀切はつつじ山と呼ばれる観光地になっている
堀切から三郭を望む
堀切から三郭を望む
三郭とされる場所は畑になっています
三郭とされる場所は畑になっています
三郭からは縄文時代の石器が出土するらしい
三郭からは縄文時代の石器が出土するらしい
二郭南側は竹藪が生い茂っている
二郭南側は竹藪が生い茂っている
柵が切れている場所がかつての虎口だ
柵が切れている場所がかつての虎口だ
虎口から南へ向かう土橋を下って行く
虎口から南へ向かう土橋を下って行く
南側の土橋状の馬出の下は急斜面になっている
南側の土橋状の馬出の下は急斜面になっている
土橋状の馬出から竹藪超しに堀切を望む
土橋状の馬出から竹藪超しに堀切を望む
土橋状の馬出を西へ向かうと三郭に出る
土橋状の馬出を西へ向かうと三郭に出る
旅と鉄道旅行記 | HOME | LINK

All Rights Reserved, Copyright (C) Mabumaro