片倉城跡は、湯殿川と兵衛川の合流点を望む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切がなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。
片倉城は、武蔵横山党の横山氏により築城されたとも、室町時代に別当大江広元の次男時広を祖とする長井氏をに築城されたとも言われる。いずれにしても和田合戦に敗れた横山党が滅んだ後、長井氏が片倉城に入ったということらしい。櫓台、土橋、土橋状の馬出し、楕円形の馬出し、空堀など技巧的な遺構が見られ、小規模な割に堅固な山城だったようだが、生い立ちや城主については諸説ある。
この城跡を実地調査した研究者によると、扇谷上杉氏方の調布市にある深大寺城と占地方法や縄張などの基本構成が極めて類似する姉妹城とも言えるらしい。その後、北条氏康が次男氏照を大石定久の養子にし、大石家の家督を継がせた時に、大石定久が隠居したのがこの片倉城だったという説がある。元亀元年の武田信玄の関東への再侵入に備えた北条家の諸城修築命令により、滝山城の支城として交通の要衝にある片倉城の設備を増強したとか。
鬼門に当たる北東には住吉池があり、社史によると片倉城主だった大江広元の次男時広の末裔である長井大膳大夫道広が、応安五年(一三七二年)城の鎮守の神として摂津国(大阪府)住吉大社を勧請したとある。住吉神社のある場所は主郭から見下ろせる位置にある腰郭に相当する。主郭は広大な二郭に比べると手狭だが、北西の隅に櫓台の跡が残り、東南には中央部に向かってかって突出した土塁があり、南側は横矢の折れが見られる。片倉城は様々な方角から登れるが、一番のおすすめは住吉神社を経由して南側へ迂回していく道筋です。
主郭の南側の横堀は、途中で見事にクランクしており先がまったく見通せず、主郭と二郭からの格好の狙撃ポイントになる。主郭と二郭の間の堀切はかなり浅くなって入るが、木橋が復元され、往時の雰囲気を偲ばせてくれる。広大な競技場レベルの二郭の北側には、堀で分けられた物見を兼ねた郭が付属し、ここからの急峻な眺めは敵方を迎え撃つのにも絶好の場所にもなろう。城跡とは関係ないが二郭の西側の堀には躑躅が植えられており、GWの時期になると見事なお花畑と化しているので家族連れにはいいでしょう。
二郭の南側は深い藪になっており、立ち入りも禁止されているのであきらめかけていた所、二郭南側に虎口を発見した。土橋が南側に向かって伸びており、半分藪に埋もれかけているが、左右に分かれている場所に来た時に右側を選んだ。三郭とされる楕円形の馬出しへ続く土橋状の馬出しがネットに公開されているのを思い出したからだ。残念ながら藪が酷く、馬出しの形状は確認出来なかったもののちゃんと三郭に辿り着けたのにはちょっと感動した。