1990年から2008年までの7次にわたる発掘 調査の結果、空堀や土塁等の遺構が良好な形で遺存していることが明らかになった。
発見された陶磁器・かわらけの遺物から14世紀末から15世紀前半に築城され、16世紀にかけて使用されていたことが判明した。
城を築いた者などは不明(伝承では多田氏)だが、 城は、 東西 350m、南北220mの範囲で、6つの郭 (西・中・北・ 東 東下 東北) と根小屋地区などから構成されている。
築城当時の姿を良好な形で残す唯一の中世城 郭の貴重な遺跡として、公園部分約25,000mが横浜市指定史跡に指定された。
茅ヶ崎城に行く前に境内の桜が素晴らしかったため偶然訪れた綱崎山寿福寺観音堂(円通閣)には、茅ヶ崎城の歴史にかかわる伝承の手がかりがあった。
「清和源氏 多田山城守行綱」という碑がまさにそれだった。
多田行綱は、またの名を源行綱。多田源氏の八代目。木曽義仲の挙兵に呼応して摂津、河内に侵攻したり、木曽義仲と闘ったり、その後頼朝方について源平合戦にも参戦。
一ノ谷の戦いでは義経軍の主力として活躍している。かの有名な鵯越の逆落としは、実は義経ではなく行綱を取り違えたという説もある。
そしてここに祀られている正観世音菩薩の由来がそのまま茅ヶ崎城の伝説となっている。
行基が長門国で流れてきた尊像と出会い、鎌倉まで持っていき、武州八葉峰(八葉の峰は一般的には高野山のことを指すらしいので、武蔵國にあったどこかのお寺?)に祀った。
だが火事で堂が焼けたときにこの像は行綱の城(多田荘、現在の兵庫県宝塚)に飛んで行ったというのだ。
それからさらに200年ほどあとにこの像はまた飛んだ。そしてそれがここ茅ヶ崎城というのである。
寿福寺観音堂は、江戸時代後期の1830 (文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』 都筑郡神奈川領茅ヶ崎村の条には次のように記されている。
観音堂
除地九百坪許(ばかり)、村の中央にあり、三間四方、東向なり、前に石段あり、本尊正観音は立像に して長(ながさ)六尺八寸、
腹籠(はらごもり 胎内に仏像があるという意味)の像あり、これは多田山城守行綱が守護仏なりと云ふ、縁起あり、その大意に云ふ
この正観音は昔、行基菩薩廻国のとき長門国志賀の荒磯と云ふ所にて感得せし所なり、それより行基関東下向 のとき、 当国(武蔵国) 八葉八谷に御手洗ありて、
霊地なればとてしばらくここに安置せり、 後寛平二年(890年) 当所の新谷と云ふ所へ移して堂宇を建立せしが、
それより百二十二年の星霜を経て治安二年(1022年) 四月八日天災にかかりて堂はことごとく烏有(うゆう 全くないという意味)となれり、
このとき本尊のみ災を免(まぬが)れしかば、 時の領主 多田山城守行綱、己が守護仏として 堂をたて長く安置せり、 此後しばしば霊験ありといへり、
天正十八年 (1590年) 太閤秀吉より出(いで)せし総泰院と同じく禁制の書に見ゆる観音堂もここのことなるべし、寿福寺の持 (もち)なり。
文明8年(1476年)6月、山内上杉氏の家臣・長尾景春の反乱が勃発し、景春に与する南関東の諸勢力も一斉に蜂起した。
小机城では景春の被官・矢野兵庫助が兵を挙げ、さらに練馬城、石神井城に豊島氏が蜂起するものの、
文明10年(1478年)鶴見川を挟んだ亀甲山(横浜市港北区)扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に対峙のすえ落城した。
このとき茅ヶ崎城でもこれに連動した攻防戦があり、江戸城から中原街道を南下した太田軍によって攻め落とされたと考えられている。
永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』によれば、小机衆被官は29人と規定されており、これは後北条氏の軍制の中では中規模の軍団勢力であった。
茅ヶ崎一帯は小机衆の一員である座間氏の所領だったことから、茅ヶ崎城は小机城の支城で、座間氏が城代もしくは城番を勤めていたものと考えられる。
やがて後北条氏が相模国を統一すると茅ヶ崎城の重要性は薄れ、永禄3年(1560年)上杉謙信の小田原攻め、永禄12年(1569年)武田信玄の小田原攻めでは、
茅ヶ崎城の名前は出てこないため、この時期には既に廃城となっていたとする説もある。