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茅ヶ崎城付近の地図
CASTLE  LIST
相模の城 ★★★★☆
源平合戦で有名な多田山城守行綱の居城の伝説が残る
 城名  茅ヶ崎城
 国名  相模国
 住所  神奈川県横浜市都筑区茅ケ崎東2-25
 別名  なし
 城郭構造  丘城
 天守構造  不明
 築城主  多田氏?
 主な城主   山内上杉氏家宰長尾氏、
  扇谷上杉氏重臣上田氏、
  座間氏(後北条小机衆)
 主な改修者  座間氏(後北条小机衆)
 遺構  空堀、堀切、土塁、曲輪、土橋、虎口
 取材年月日  2015年3月29日
 1990年から2008年までの7次にわたる発掘 調査の結果、空堀や土塁等の遺構が良好な形で遺存していることが明らかになった。 発見された陶磁器・かわらけの遺物から14世紀末から15世紀前半に築城され、16世紀にかけて使用されていたことが判明した。 城を築いた者などは不明(伝承では多田氏)だが、 城は、 東西 350m、南北220mの範囲で、6つの郭 (西・中・北・ 東 東下 東北) と根小屋地区などから構成されている。 築城当時の姿を良好な形で残す唯一の中世城 郭の貴重な遺跡として、公園部分約25,000mが横浜市指定史跡に指定された。

 茅ヶ崎城に行く前に境内の桜が素晴らしかったため偶然訪れた綱崎山寿福寺観音堂(円通閣)には、茅ヶ崎城の歴史にかかわる伝承の手がかりがあった。 「清和源氏 多田山城守行綱」という碑がまさにそれだった。 多田行綱は、またの名を源行綱。多田源氏の八代目。木曽義仲の挙兵に呼応して摂津、河内に侵攻したり、木曽義仲と闘ったり、その後頼朝方について源平合戦にも参戦。 一ノ谷の戦いでは義経軍の主力として活躍している。かの有名な鵯越の逆落としは、実は義経ではなく行綱を取り違えたという説もある。 そしてここに祀られている正観世音菩薩の由来がそのまま茅ヶ崎城の伝説となっている。 行基が長門国で流れてきた尊像と出会い、鎌倉まで持っていき、武州八葉峰(八葉の峰は一般的には高野山のことを指すらしいので、武蔵國にあったどこかのお寺?)に祀った。 だが火事で堂が焼けたときにこの像は行綱の城(多田荘、現在の兵庫県宝塚)に飛んで行ったというのだ。 それからさらに200年ほどあとにこの像はまた飛んだ。そしてそれがここ茅ヶ崎城というのである。

 寿福寺観音堂は、江戸時代後期の1830 (文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』 都筑郡神奈川領茅ヶ崎村の条には次のように記されている。
 観音堂
除地九百坪許(ばかり)、村の中央にあり、三間四方、東向なり、前に石段あり、本尊正観音は立像に して長(ながさ)六尺八寸、 腹籠(はらごもり 胎内に仏像があるという意味)の像あり、これは多田山城守行綱が守護仏なりと云ふ、縁起あり、その大意に云ふ この正観音は昔、行基菩薩廻国のとき長門国志賀の荒磯と云ふ所にて感得せし所なり、それより行基関東下向 のとき、 当国(武蔵国) 八葉八谷に御手洗ありて、 霊地なればとてしばらくここに安置せり、 後寛平二年(890年) 当所の新谷と云ふ所へ移して堂宇を建立せしが、 それより百二十二年の星霜を経て治安二年(1022年) 四月八日天災にかかりて堂はことごとく烏有(うゆう 全くないという意味)となれり、 このとき本尊のみ災を免(まぬが)れしかば、 時の領主 多田山城守行綱、己が守護仏として 堂をたて長く安置せり、 此後しばしば霊験ありといへり、 天正十八年 (1590年) 太閤秀吉より出(いで)せし総泰院と同じく禁制の書に見ゆる観音堂もここのことなるべし、寿福寺の持 (もち)なり。

 文明8年(1476年)6月、山内上杉氏の家臣・長尾景春の反乱が勃発し、景春に与する南関東の諸勢力も一斉に蜂起した。 小机城では景春の被官・矢野兵庫助が兵を挙げ、さらに練馬城、石神井城に豊島氏が蜂起するものの、 文明10年(1478年)鶴見川を挟んだ亀甲山(横浜市港北区)扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に対峙のすえ落城した。 このとき茅ヶ崎城でもこれに連動した攻防戦があり、江戸城から中原街道を南下した太田軍によって攻め落とされたと考えられている。

 永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』によれば、小机衆被官は29人と規定されており、これは後北条氏の軍制の中では中規模の軍団勢力であった。 茅ヶ崎一帯は小机衆の一員である座間氏の所領だったことから、茅ヶ崎城は小机城の支城で、座間氏が城代もしくは城番を勤めていたものと考えられる。 やがて後北条氏が相模国を統一すると茅ヶ崎城の重要性は薄れ、永禄3年(1560年)上杉謙信の小田原攻め、永禄12年(1569年)武田信玄の小田原攻めでは、 茅ヶ崎城の名前は出てこないため、この時期には既に廃城となっていたとする説もある。
北曲輪を外側から望む
北曲輪を外側から望む
城域は傾斜した台地状になっている
城域は傾斜した台地状になっている
寿福寺観音堂1
寿福寺観音堂1
寿福寺観音堂2
寿福寺観音堂2
寿福寺観音堂3
寿福寺観音堂3
寿福寺観音堂4
寿福寺観音堂4
寿福寺観音堂5
寿福寺観音堂5
寿福寺観音堂6
寿福寺観音堂6
寿福寺観音堂7
寿福寺観音堂7
寿福寺観音堂8
寿福寺観音堂8
多田山城守行綱の守り本尊は正観音菩薩
多田山城守行綱の守り本尊は正観音菩薩
寿福寺観音堂9
寿福寺観音堂9
寿福寺観音堂10
寿福寺観音堂10
茅ヶ崎城概略図UP
茅ヶ崎城概略図UP
茅ヶ崎城概略図
茅ヶ崎城概略図
公園入口1
公園入口1
右へ行くと西郭、左へ行くと北郭・中郭
右へ行くと西郭、左へ行くと北郭・中郭
北郭の桜1
北郭の桜1
北郭の桜2
北郭の桜2
北郭の桜3
北郭の桜3
北郭の桜4
北郭の桜4
北郭の桜5
北郭の桜5
外側の堀(現在の道路)を隔ててさらに別の郭があった
外側の堀(現在の道路)を隔ててさらに別の郭があった
北郭は桜を愛でる憩いの場だ
北郭は桜を愛でる憩いの場だ
詳しい縄張り図も掲載されている
詳しい縄張り図も掲載されている
北郭とさらに北側にあった郭との間に土橋があった
北郭とさらに北側にあった郭との間に土橋があった
真ん中にある標柱のあたりが、かつての土橋
真ん中にある標柱のあたりが、かつての土橋
公園入口2
公園入口2
北郭に再び戻ってきた
北郭に再び戻ってきた
二種類の桜が楽しめる
二種類の桜が楽しめる
北郭には井戸があった
北郭には井戸があった
横浜市の指定史跡になっている
横浜市の指定史跡になっている
北郭は三方を土塁に囲まれている
北郭は三方を土塁に囲まれている
残念ながら井戸の痕跡は残っていない
残念ながら井戸の痕跡は残っていない
北郭の桜6
北郭の桜6
北郭の桜7
北郭の桜7
北郭の桜8
北郭の桜8
中郭北側の虎口を下の北郭から見たところ
中郭北側の虎口を下の北郭から見たところ
中郭はかなり広い
中郭はかなり広い
中郭を取り囲む見事な土塁
中郭を取り囲む見事な土塁
中郭北側の様子
中郭北側の様子
土塁の説明
土塁の説明
中郭北側の土塁1
中郭北側の土塁1
中郭北側の土塁2
中郭北側の土塁2
中郭から北郭を見下ろす
中郭から北郭を見下ろす
建物の礎石
建物の礎石
この位置にあった建物は倉庫だったようです
この位置にあった建物は倉庫だったようです
発掘調査で中郭の建物の様子が明らかになった
発掘調査で中郭の建物の様子が明らかになった
土器の説明
土器の説明
郭の説明
郭の説明
中郭北側の虎口方面を望む
中郭北側の虎口方面を望む
中郭南側の虎口
中郭南側の虎口
中郭南側の虎口土塁
中郭南側の虎口土塁
中郭南側のY字路 左下へ降りると東廓へ至る
中郭南側のY字路 左下へ降りると東廓へ至る
右下へ降りると東廓へ至る 左上へ上がると中郭へ至る
右下へ降りると東廓へ至る 左上へ上がると中郭へ至る
根古屋の説明
根古屋の説明
左側の中郭と右側の東廓をつなぐ土橋を南側から望む
左側の中郭と右側の東廓をつなぐ土橋を南側から望む
南西側から東廓へ登る階段
南西側から東廓へ登る階段
南側から土塁を登って土橋へ向かう
南側から土塁を登って土橋へ向かう
土橋に到着
土橋に到着
土橋の様子
土橋の様子
土橋を東側に登ると東廓へ至る
土橋を東側に登ると東廓へ至る
東郭は見晴らしが良い
東郭は見晴らしが良い
東郭を後にして西廓方向へ向かう
東郭を後にして西廓方向へ向かう
土橋の説明
土橋の説明
土橋の南側に戻って来た
土橋の南側に戻って来た
東郭の南側では桜が咲いていた
東郭の南側では桜が咲いていた
中郭の土塁の様子
中郭の土塁の様子
根古屋に降りる管理者用通路は立入禁止
根古屋に降りる管理者用通路は立入禁止
このあたりは古の趣きが感じられる
このあたりは古の趣きが感じられる
生活についての説明
生活についての説明
各所にベンチが設置されている
各所にベンチが設置されている
西郭へ向かって上り坂になっている
西郭へ向かって上り坂になっている
迷子にならないように各所に標柱が設置されている
迷子にならないように各所に標柱が設置されている
かつての搦手口なのかもしれません
かつての搦手口なのかもしれません
西郭の土塁
西郭の土塁
西郭の西側には背の低い土塁がある
西郭の西側には背の低い土塁がある
西郭の東側には土塁がなく、正面に見える土塁は中郭のもの
西郭の東側には土塁がなく、正面に見える土塁は中郭のもの
西郭は他の郭と違って樹木が多い
西郭は他の郭と違って樹木が多い
ここから中郭の土塁に登れそうだ
ここから中郭の土塁に登れそうだ
公園入口1を登ってくると、この標柱が見える
公園入口1を登ってくると、この標柱が見える
中郭と西郭の間などの道は、かつての空堀
中郭と西郭の間などの道は、かつての空堀
標柱のところを左へ下ると、公園入口1へ至る
標柱のところを左へ下ると、公園入口1へ至る
正面に見えるのが北郭
正面に見えるのが北郭
かつての空堀である遊歩道部分は、もう2〜3m深かった
かつての空堀である遊歩道部分は、もう2〜3m深かった
空堀に侵入した敵は土塁の上からの弓矢で狙われる
空堀に侵入した敵は土塁の上からの弓矢で狙われる
虎口の説明
虎口の説明
左側が中郭、右側が西郭
左側が中郭、右側が西郭
先程見つけた中郭の西側土塁への踏み跡を登ってみる
先程見つけた中郭の西側土塁への踏み跡を登ってみる
土塁に登ってみた
土塁に登ってみた
西郭との間の遊歩道を見下ろす
西郭との間の遊歩道を見下ろす
西側の土塁を南へ向かう
西側の土塁を南へ向かう
土塁の上は意外と樹木が生い茂っている
土塁の上は意外と樹木が生い茂っている
土塁に上がると、城の構造が良く分かる
土塁に上がると、城の構造が良く分かる
根古屋部分は竹が生い茂っている
根古屋部分は竹が生い茂っている
南側の土塁を東へ向かう
南側の土塁を東へ向かう
南側の土塁から中郭を望む
南側の土塁から中郭を望む
オオイヌノフグリ
オオイヌノフグリ
中郭の礎石のところにたくさん咲いてます
中郭の礎石のところにたくさん咲いてます
中郭の礎石と桜
中郭の礎石と桜
中郭はかなり広い
中郭はかなり広い
北側土塁から公園入口1を見下ろす
北側土塁から公園入口1を見下ろす
北側土塁北西隅から見下ろす
北側土塁北西隅から見下ろす
中郭に咲いている桜は1本だけ
中郭に咲いている桜は1本だけ
北側土塁から北郭を見下ろす
北側土塁から北郭を見下ろす
北側虎口で土塁は切れている
北側虎口で土塁は切れている
北郭の桜9
北郭の桜9
北郭の桜10
北郭の桜10
北郭の桜11
北郭の桜11
北郭の桜12
北郭の桜12
画面右下の公園入口1から帰ります
画面右下の公園入口1から帰ります
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