上原城諏訪氏館跡石碑建立委員会設置の碑文
昭和六二年十一月二三日
この館跡は、上原城の大手側、標高八四五メートルの小字、板垣平に位置し、面積はおよそ一ヘクタールである。
室町時代の後期、上原城を拠点とした諏訪惣領家の諏訪信満が文平元年(一四六六)頃から、この地に館を構え、上原郷に城下町を形成した。
その後、諏訪氏は信満−政満−頼満−頼隆−頼重の五代七十余年にわたって諏訪地方を統治し、上原城下町は諏訪地方の政治、経済、文化の中心として栄えた。
然るに、天文十一年(一五四二)七月、甲斐の武田信玄によって諏訪氏は滅ぼされた。
諏訪地方を領有した信玄は、翌年、その重臣板垣信方を諏訪郡代に任命し、信方はこの館跡に普請と上原城下町の区画割をおこない、天正十年(一五八二)三月、武田氏の滅亡まで四十年間、この館を中心に上原城下町は諏訪地方最大の町として栄えた。
現在、この館跡のほぼ中央には井戸跡の一部が残存し、西側の一段下には家老屋敷の地名をはじめ、その斜面一帯には家臣団の居住したと思われる段郭が残っている。
この度、地元上原ならびに諸地域の有志のかたがたのご協力により諏訪氏、武田氏を通じて百二十数年間、諏訪統治の中枢として重きをなした板垣平の一画に、史跡としての諏訪氏館跡の石碑を建立し、今日の諏訪地方発展の歴史的由緒ある場所として、後世に残し往時を偲ぶ一助とする次第である。
上原城諏訪氏館跡(字板垣平)の案内
このクルマ道を登れば、長野県指定諏訪氏城跡「上原城」に行きます。
右手の石碑から南方平坦地一帯は室町時代後期からの上原城諏訪氏館跡(面積約一ヘクタール)で、戦国時代の天文十一年(一五四二)七月、武田晴信(信玄)により諏訪領主、諏訪頼重が滅ぼされて以降、武田氏の諏訪郡代(初代、板垣信方)の邸が造立された。
そして天正十年(一五八二)三月まで四〇年間、武田氏の諏訪統治の拠点となった所です。今日でもこの地籍は字名を「板垣平」とよんでいます。
長野県史跡諏訪氏城跡上原城
(昭和四十六年五月二十七日)
上原城跡は諏訪盆地を一望する金毘羅山頂(標高九七八m)にある。その遺構としては主郭・土塁・二の郭・三の郭・空掘・物見石等があり、城山の中腹の小家板垣平(おおよそ一ha)には居館跡がある。この城は北は永明寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城をひかえ、前方南には上川や宮川を隔てて千沢城に対し、諏訪上社(本宮・前宮)を見下ろした中世の典型的な山城である。
築城の年代は明らかでないが、室町後期、文正元年(一四六六)頃より諏訪惣領家当主・信満がこの城の中腹に館を構え、 上原郷に城下町を作った。
その後、諏訪氏は信満−政満−頼満−頼隆−頼重の五代七〇余年にわたり諏訪地方を統治したが、天文十一年 (一五四二)七月甲斐の武田晴信(信玄)によって滅ぼされ惣領家諏訪氏は滅亡した。
以後、上原城とその館は武田氏の諏訪地方統治と信濃攻略の基地として天正10年(1582)武田氏の滅亡まで約40年間続いた。
この城跡は昭和四六年五月二七日、長野県史跡に指定された。
なお、三の郭にある金毘羅神社は頼岳寺一八世尊応が文化二年(一八〇五)に頼岳寺鎮守神として、四国の讃岐より金毘羅大権現を勧請してこの地に祀ったものである。
上原城主郭跡
この主郭跡は金毘羅山の最高所にあり、標高九七八mである。
主郭の大きさは南北三〇m、東西二〇mほどで、三方に低い土塁跡を残し、南西口に虎口を開いている。
物見岩のある平地が二の郭で、金毘羅神社のある所が三の郭となり、この城の中枢部である。
居館板垣平からの登路が大手に当り、途中所々に小郭を置いて、幾重にも防御されている。
東面は上幅三〇mに及ぶ大空堀を隔てて、はなれ山の出郭があり、その先を空堀で背後の山から切りはなしている。
南面には畝形を思わせる竪堀を連即して施し、北面には幅広い曲輪が置かれ、これらの曲輪はそれぞれ二の郭、三の郭と武者走りと呼ばれる通路で連結され、全体に輪郭式の縄張りで構成されている。
水の手は背後の湧水と北西下の沢水が利用されたようであるが、城内に引水されたことも考えられる。
理昌院平の下方にもしっかりした郭が続き、周囲の尾根上にも小郭が配されていて、小規模ながら堅固な備えで、戦国時代の山城の姿をよく残している。
平成元年一月 茅野市教育委員会
高白斎記 天文十二年(一五四三)
五月二十五日幸未。巳刻己午に向かう上原の城の鍬立。
諏訪郡上原城の鍬立式(地鎮祭)が行われる。
六月大甲戌十一日土用甲申日也。信形諏訪に在城の門出。
板垣信方は吉日を選び、上原城在城のための門出の儀式を行う。
六月十五日、信形出陣。
板垣信方は軍勢を率いて府中に赴き、武田晴信の上原城検分のための出迎えをする。
六月十七日庚虎、午の刻屋形様御出張。
武田晴信は上原城検分のため府中を出発する。
六月十九日、上原へ御着。
武田晴信は上原城に到着する。
六月二十六日己亥、城の御座建つ。並びに御門四つ。城戸建つ。
武田晴信、上原城の主殿(板垣平の郡代の邸)、門、木戸の建設を検分する。
七月十三日丙辰、初めて長坂(長坂筑後守か)上原在城衆移る。
長坂光堅は諏訪在城衆を引き連れて上原城に移る。
守矢頼真書留 天文十七年(一五四八)
此年、西四郷の一族矢島花岡、七月十日に甲州へ致逆心、同十九日ニ牢人候、神長は上原の城へ七月十日申刻ニ移候,神秘の彼籠計持候テ,自余ハ悉捨候。
諏訪西四郷の花岡忠常、矢島満清らは小笠原長時に通じて七月十日に兵を挙げ、諏訪へ乱入した。
千野氏と神長官守矢氏だけが、川西から上原へ移って晴信方についた。この時、神長官は「神秘の籠」だけを持って、自余の物は悉く捨てたという。