武田信玄の諏訪攻めと桑原城
桑原城は、戦国時代の山城であり、諏訪惣領家の本拠である上原城(茅野市)の支城の役割を担った重要な場所でした。
天文四年(一五三五)には惣領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が諏訪社の宝鈴を鳴らして和睦、信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に輿入れし、諏訪・武田家は同盟関係を結んでいました。その関係が崩れたのは、惣領を継いだ諏訪頼重が天文一〇年(一五四一)に関東管領上杉憲政と単独で講和を結んだ報復か、翌一一年(一五四二)、父信虎を追放した武田晴信(のちの信玄)が諏訪に攻め入ったことによります。
上社神長の記録「守矢頼真書留」によれば、そのころ諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦が続き。民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと結んだ武田勢を迎え撃つ能力には差が歴然としていたといいますが、頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と戦おうとしていました。
七月二日夜、劣勢のまま居城である上原に火をかけて桑原城へ退却、三日の夕方には、戦闘に備えるために検分をしようと「つるね」(足長神社へ続く尾根か)を下った頼重を見た家臣が、頼重が城を捨てたと思い逃げていってしまったため、二〇人ほどで夜を明かし、四日、甲州勢の使者を受け入れて城を明け渡すことにしました。その後、頼重は甲府に連行され、東光寺で自刃しました。
このように桑原城は、諏訪惣領家最期の舞台になりました。
諏訪市観光協会
高白斎記 天文十一年(一五四二)
七月巳酉。土峯(長峰・現茅野市東部・八ヶ岳西麓)御出陣所。諏訪の方、雲黒く赤し。
七月三日。桑原(現諏訪市、高島の南東)へ押詰める。風雨。
七月四日。桑原城を攻め頼重を生け捕る。酉刻、各陣所へ帰る。
七月五日。頼重、甲府へ遣わされる。申刻着府。
七月九日。屋形様御帰府。
七月十三日。諏訪大祝へ御預け。
七月十九日。頼重牢者。
七月二十一日寅刻。頼重切腹させられる。
飯田線へ向かうため西に向かう中央線の車窓から友人が見つけた「桑原城跡」という看板が、土の城へ興味を抱くきっかけとなった。
元々武田氏は好きだったのだが、武田晴信に攻められた諏訪頼重という戦国武将が最後に立て籠もったのが桑原城だと知り、実際に現地を訪れたくなった。
桑原城は上諏訪駅と茅野駅の中間にあり、当日は駅でレンタサイクルを借り、頼重が葬られた頼重院、諏訪氏の菩提寺である頼岳寺、諏訪氏の居城上原城に立ち寄った後に訪れた。
頼重は居城である上原城を放棄して、七月二日の夜に桑原城に立て籠もった。
そもそも何故居城である上原城を捨て、収容人数も少なく、要害堅固でもない桑原城に移ったかという疑問が生じる。
この疑問は実際に現地へ行き、諏訪頼重の心境を想像することによりひとつの仮説を導き出すことになった。
上原城からはほとんど見えなかった諏訪湖が、桑原城からはよく見えるのである。
上原城を放棄した時点で、頼重は負けを覚悟し、一生の名残に諏訪湖を一目見ようと桑原城に移ったのでは?と考えると、つじつまが合う。
また現地を訪れた感想では城跡というより古墳のイメージが強く残った。
諏訪氏の先祖が眠る墳墓の地だとしたら、頼重が最後に向かったのも必然の流れだったのも知れない。
七月三日の夜に頼重は、城の南東の尾根を自ら検分しに下った。
その様子を見ていた家臣が、「頼重が自落(敵の勢力をおそれ、味方に寝返る者が多く戦わずして城から撤退すること)した」と勘違いしてしまい、多くの家臣が逃散してしまった。
その結果、頼重の元には僅か二十名程の家臣しか残っていなかった。
大河ドラマでは、板垣信方や山本勘助が諏訪頼重に降伏勧告を行うが、史実では勘助は天文十二年(一五四二)一月、晴信に知行二百貫文で仕官しており、桑原城に勘助は訪れていない。
『甲陽軍鑑』に拠れば、頼重の娘である諏訪御料人を迎えることには武田家中に反対論があったと言われ、山本勘助が家中を説得したとする逸話を記しているので、それを基にして大河ドラマでは勘助が諏訪御料人に恋心を抱くという設定がなされたと思われる。
桑原城から見た諏訪湖の眺めは、頼重の目には物悲しく哀愁を帯びていたに違いない。
頼重の悲痛な思いは、政略結婚した晴信の妹禰々の方、そして禰々の方との間にその年に生まれたばかりの虎王丸、先妻小見の方(信濃麻績氏の娘)との間に設けた、後に晴信の側室となった諏訪御料人の行く末に注がれていたのでは?
現地に立って諏訪湖を眺めながらそんなことを想像してしまった。
禰々の方は、兄晴信を恨みつつ天文十二年(一五四三)一月十九日に亡くなり、虎王丸はおそらく晴信により謀殺され、 諏訪御料人は、晴信との間に勝頼を設けるが弘治元年(一五五五)十一月六日に短い生涯を閉じた。