菊水山駅
菊水山駅、なんて響きのいい名前の駅なんでしょう。軍艦マニアならよくご存知の菊水作戦は、戦艦大和が一機の護衛機をつけずに沖縄へ特攻を敢行した作戦である。
菊水とはなんぞやと調べてみると楠正成の家紋に使われており、楠木正成600年祭が昭和10年に行われた際、
楠木氏の家紋であった菊水を山の中腹に生えていた若松で作ったことからこの駅に近い山が菊水山と名付けられたそうだ。菊水の家紋とは、
楠木正成は後醍醐天皇から菊の御紋を拝領したが、恐れ多いということで下半分を水で流したものになっている。
源義経が一の谷の合戦で勝利をもたらしたきっかけとなった鵯越の逆落としの位置として菊水山の隣駅の鵯越が一説として取り上げられているのも興味深い。
もしかしたら、源義経の軍勢が菊水山駅の付近を通過したかもしれないと考えると歴史のロマンを感じる。
よくよく調べてみるとこの駅に停車する列車が極端に少ないことが分かり、その後の行程を組む上で朝一番にこの駅に辿り着かなければならないことが判明する。
大船から東海道本線の夜行急行銀河、梅田から阪急電鉄の特急を乗り継ぎ、新開地から発車する朝方の2本の普通列車をうまく使うことによって効率良く取材することが出来た。
神戸電鉄はスルッとKANSAIに加盟しているのだが、唯一この菊水山駅はカード非対応駅なので、梅田〜新開地、新開地〜菊水山と切符を分けて買うことを予測していた。
だが、梅田駅の券売機の前に立ってみたらなんと菊水山まで乗車券が通しで買えるのには驚いた。こんな情報はさすがにネット上で探しても見つからなかった。
実は新開地から鈴蘭台へ至る山岳路線はJRの乗り潰しのついでに乗ったことがあるが、ほんの10数分で都会から人里離れた山奥へいざなってくれるのは京都から保津峡へのアプローチよりも遥かに劇的であると痛感した。
我々以外には誰も降りないと思っていた菊水山駅に一人の若い女性が降り立ったのには正直驚いた。
彼女は対向ホームの駅ノートに書き込みをする訳でもなく、ベンチに座ってみじろぎもしない。
白い帽子をかぶったその姿にあっけにとられながらホーム上を行ったり来たりして、あたふたと写真を取り捲る自分とは好対照だ。
しばらくホームで撮影していて気がついたのだが、予想以上に列車の本数が多いのである。駅の踏切がひっきりなしに鳴り響き、
準急や普通列車(この駅に停まる普通列車は貴重なのです)がこの駅を通り過ぎて行く。車内の乗客と目が合うこともしばしばあり、
なんとなく優越感というか一人悦に入った気分になっている自分がそこにいた。
ひとしきり駅の撮影を終え、駅の周囲の撮影へ向かう。まずは、駅名の由来となっている菊水山方面へ歩いてみる。
駅に続く道のひとつはハイキングコースの一部になっていて、新開地方の鵯越から鈴蘭台まで歩くことが出来る。
市街地のすぐそばにこんなに手付かずの自然が溢れているのは関西では当たり前のことなのだが、関東人にとっては羨ましい限りだ。
子供が3歳くらいなったら絶対この駅に連れてこようと心に誓ったのだが、その夢は3ヵ月後に見事に打ち砕かれてしまった。
神戸電鉄が2004年9月24日に菊水山駅の営業休止を発表したからである。鉄道の世界での休止は事実上の廃止を意味する。
晴天の霹靂というかまさかそんなことになろうとは露知らず、気ままに撮影した画像を急遽UPすることで、
2005年3月末に営業休止になるまでの訪問者の道しるべとなれば幸いです。
スルッとKANSAIへの対応(菊水山駅下車時の精算、菊水山駅から乗車した場合の降車駅での精算)の煩雑さ、駅構内の安全確保などの問題ということもあるが、
利用する人が平均18人ということが最大の理由だろう。休止してもほとんど支障がないと判断されても止むを得ないでしょう。
利用者の大半はハイカーや水道施設の見回りの人だろうと予想され、付近にまったく民家がない秘境駅であるので、
平日は恐らく利用客は限りなくゼロに近いものと思われます。
取材年月日2004年6月19日
菊水山駅は、2018年3月23日に廃止されました。