早川にかかる赤い欄干の湯本橋を渡ると老舗蕎麦屋「はつ花」、豆腐と山芋料理の店「知客茶屋」、人気銘菓「月のうさぎ」で有名な「菜の花」、シフォンケーキが人気の「茶房うちだ」、夕方には売り切れ必至の豆乳杏仁豆腐の「豆腐処 萩野」などが点在している。
箱根の温泉と聞いて皆さんはどのようなイメージを抱くだろうか?天山やユネッサンのような大規模な温泉施設、貸切風呂や部屋に風呂の付いた高級旅館などが一般的だ。首都圏から手軽に行ける最も有名な観光地のひとつである箱根だが、箱根湯本駅近くに素泊まりの温泉旅館が点在していることはあまり知られていない。早川と須雲川の合流点に位置する旧湯場地区には「大和館」の他にも「ますとみ旅館」、「住吉旅館」(廃業)、「萬寿福」、「萬翠楼 福住」など中規模の旅館が密集しており、古き良き湯場の風情が今なお残っている。ちなみにこの地域は旧湯場と呼ばれており、箱根で最も古くから開発が進んだ地域である。
ネットでの情報を見ているとここ大和館を根城にして温泉巡りをする方が年々増えているような気がする。箱根湯本で素泊まりと言うとちょっと違和感を感じるが、小田原にも近く、箱根登山鉄道の始発駅であり、バスの便も良い。金曜の夜にロマンスカーで箱根に行き、そのまま素泊まりして翌朝早くから行動出来るのも魅力的だ。箱根湯本は大規模な旅館ばかりが有名だが、早川を渡った地域にも小規模な自家源泉の宿がいくつかあると聞いている。食事処や土産物屋が豊富なので今年の年末にはこの大和館に泊まって、知られざる箱根湯本の魅力を探してみようと思う。
この旅館正式には「大和館」という名前なのだが、看板には何故だか大和旅館と書いてある。旭橋側からは「ますとみ旅館」が、湯本橋側からは「萬寿福」が目印になる。「大和館」に至る道は非常に細いが、玄関先には車1台なら駐車出来るスペースがある。玄関を入って右側の廊下を進むと男女別の狭い浴室が並び、一番奥に広い浴室がある。この浴室は貸切にする事が出来る上に洗い場も浴槽も広々していて、600円で入れるというのが俄かに信じられなくなる。
ひょうたん型の浴槽には絶妙な湯使いのお湯が満たされていて、給湯は浴槽の側面の管からされている。気が付くとタイルには至る所に黒っぽい物が付着していて気になったが、帰宅後調べてみるとこれは湯の花だったことが判明した。国道1号線から少し入ったところにあるが、浴槽からお湯が溢れる音と外から聞こえる虫の声だけしか聞こえない。これだけ心静かに温泉に入れるのは久々である。しかもここは天下の有名観光地箱根だ。
単純泉だが、これだけ感動出来るのは初めての経験である。泉質云々以上の湯使いの良さ、静かな環境、気さくな女将さんの心遣いが光る。外観からは分からないが、内部はかなり年季の入った建物で階段のあたりが微妙に傾いているように感じた。ぴかぴかに磨き上げられた階段が、昔ながらの湯治宿といった雰囲気を醸し出している。帰りがけに階段の途中にあるトイレを使わせてもらったのだが、洋式でウォシュレットの設備も備えていて感心した。
神湯源泉の隣にある熊野神社境内に掲示されている湯場権現講による説明文です。
熊野神社のこと
「いとさかしき山(険しい山)をくだる。人の足もととどまりがたし、湯坂とぞいうなる」鎌倉時代中期の歌人阿仏尼が「十六夜日記」に、こう記した山が、皆様が今立っている熊野神社の裏山、湯坂山です。「温泉の出る急坂の山」という意味でついた名でしょう。今もこの山の横穴から温泉がこんこんと湧き出ています。この地を湯本(元)というのも箱根で一番早く開けた温泉だからで、温泉は一千二百年も前の奈良時代に見つかったと伝えられています。鎌倉時代には、幕府の有力な武将も湯治に来ており、戦国時代には、北條氏綱以下小田原北條の武将たちが、早雲寺に参詣のたびに温泉に浴したので「北條氏の足洗い湯」ともいわれてきました。このように早くから温泉場として開けてきたことから、温泉の神様として、紀州の熊野権現を勧請(分霊を祀る)し、湯場の鎮守として祀ってきたのです。江戸時代後期に書かれた「七湯の枝折」には、熊野を音読みにすると「ゆや」になるので、「ゆ(湯)や権現」として祀ったのであろうと書かれています。今も皆様の病気を癒してくれる温泉の神様として、地域の人たちの深い信仰を受け、昭和六十三年十月、新社殿が竣工しました。