湯崎温泉は、その昔、 紀の温湯、牟婁の温湯の名によって、奈良朝の頃から著名で、その頃の「崎の湯」は、「牟婁温湯」と呼ばれており、有間皇子および、斉明天智・ 持統・文武四帝の行幸を仰いだことが「日本書紀」や「万葉集」にも記されている。
そしてこの崎の湯が、 湯崎の温泉中最も古く、 四帝が沐浴されたのも、この湯であると伝えられている。
斉明3年(657)、時の孝徳天皇の皇子である「有間皇子」が、この「崎の湯」に逗留され、その「有間皇子」の薦めで木の根険しい山坂をいとわず、翌年には、「斉明天皇」が、大宝元年(701)には、「持統天皇」「文武天皇」が行幸され、また熊野詣での往来に、「後白河法皇」をはじめ、都の貴族たちが沐浴されており、道後・有馬と並んで日本最古の三湯の一つの温泉とされている。
その頃の「崎の湯」は、砂岩に浸食された窪みが自然の湯舟になっていて、海を眺めながら入浴していたとされており、本当にのどかな自然のままの磯風呂で、今日の「崎の湯」もその頃を感じさせています。
古い文献には 「この湯坪は自然石にて薬師の形也」 云々と記されている。
徳川時代に入って湯崎温泉は、鉛山温泉または田辺の湯と呼ばれたが、元禄年間 には、崎の湯・元の湯・砿湯(まぶゆ)・屋形の湯の四湯の名がみえるが、その後、享和には、浜の湯 阿波の湯を加え (「紀伊続風土記」) 更には、 疝気湯を加えて、 幕末頃には いわゆる湯崎七湯と称せられるようになった。
現在では七のうち、砿湯(まぶゆ)・崎の湯 だけが残っている。
湯崎温泉には、徳川頼宣をはじめ、 歴代の紀州藩主および八代将軍吉宗、近代では、画家野呂介石 祇園南海等、多くの文人、個人が来遊しその良さをほめたたえた歌や詩も多い。
詩人である中村憲吉(広島県出身:アララギ派の重鎮)は、崎の湯のことを次のように歌っています。
『遠い世の女みかどを慰めし、紀伊のみゆきはこの湯にありき』