本日の宿である川底温泉蛍川荘へと細く曲がりくねった387号線を北へ急ぐ。旧宮原線の廃線跡の取材ですっかり到着が遅くなってしまった。宿についたのは約束の17時も過ぎて、すっかり日も暮れてしまった。携帯を持っていないと、こんな山奥では連絡をとることが出来ないので不便だ。
ようやく宿に辿り着き仲居のおばあさんが出て来たのだが、宿の方の出迎えがないのが少々寂しい。それもそのはずこの日の宿泊客は我々だけで、心配だった混浴の大浴場にも二人きりで貸し切り状態でした。
この温泉は歴史が深く、菅原道真が大宰府に左遷された時、刺客を逃れて身を隠した時に発見された。その名の通り町田川沿いの川の底から湧き出しており、浴槽の底には大きな石がごろごろしている。石をどけると砂があり、川沿いの源泉の真上に浴舎が建てられており、法師温泉と同じ様な立地条件である。
大浴場は三つの浴槽があり、上流から下流へと温度が高、中、低と異なり、高温はうちみ・ねんざ・婦人病、中温はリューマチ・神経痛、低温は切り傷・美白作用と効能が異なる。一番入り易いのは中温だが、あえて高温と低温に交互に入り温冷浴法も楽しめる点も見逃せない。
夕食は別室でいただいたのだが、味付けと食器のセンスの良さが光った。さすが三笠宮殿下がお泊まりになられた由緒ある宿である。実は食後にちょっとしたハプニングがあった。
デザートの苺を食べるのを忘れたので、別室に戻ってみると丁度仲居のおばあさんが片付けをしている最中だった。苺のことを尋ねると、「申し訳ございません、食べてしまいました。」と平謝り。気が付かなかった自分が悪いのだが、女将には何分内緒にしてくれと涙目になって謝るので、なんだかかわいそうになった。
こんなやりとりがあったせいか、翌朝の朝食の給仕は実に心のこもったサービスになった。まるでおばあちゃんが孫の世話をするように痒い所に手の届く至れりつくせりのもてなしだった。
湯豆腐の出汁を取るために入っている昆布を食べるといいとすすめてくれたのには、さすがに驚いた。こういうふれあいは初めての体験だったので、悪くないと思った。もっとも鍋物などの出汁用の昆布を食べるのは、習慣化しているので自分としては珍しいことではなかったが。
朝食後に庭園露天風呂に行く。見てくれはいいのだが、手入れが回らないのか、綺麗な緑色をした苔が光合成を起こして酸素の粒がいっぱいついている。朝日に輝いてキラキラした泡につつまれての不思議な気分の入浴だった。
そして、楽しみにしていた混浴の大浴場での朝風呂。この時丁度朝日が格子の間から差し込んできて、絶好のシャッターチャンスだった。自家源泉、足元湧出、混浴、一軒宿、風情のある浴室どれをとっても一級品のお湯であるが、格子越しに差し込む朝日が底の玉砂利を照らす、この瞬間に出会うことこそがこのお湯の醍醐味であると思う。
最後まで顔を見せなかった女将が帰り際に見送りをしてくれたので、ほっとした気分になった。日帰り入浴も受け付けているのだが、ここはやはり泊まりで利用したい。今度来るときは仲居のおばあさんは生きているかどうか、ふと心配になった。